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傑作建築物30選

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プリンセスブリッジ Princes Bridge

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2012年2月23日(木)
プリンセスブリッジ
Princes Bridge
ヤラ川 Yarra River
メルボルン Melbourne
この場所の地図 Google地図

メルボルンの代表的な橋といえば、このプリンセス橋。メルボルンの成立の頃から街と共に生きてきた橋だ。


建築年:1888年10月4日
場所: スワンストン通り Swanston Street−セントキルダ通り St Kilda Street
設計:John Grainger (1855-1917)   建設:David Munro
建築時代:ビクトリアン 
全長:120m、幅30m
橋げた:3本 橋げた間の距離:30m
登録:ビクトリア州遺産 Victorian Heritage Register

プリンセス橋の名前は、当時のエドワード英国皇太子(Edward, Prince of Wales)から取られている。
エドワード皇太子は、ビクトリア女王の長男で、ビクトリア女王が1901年に亡くなった後に英国王となる。ビクトリア女王の統治時代をビクトリアン。エドワード王が1910年なくなるまでに統治した時代をエドワーディアンと言い、メルボルンの建設から繁栄の時代であったためにメルボルンの多くの建設物にこのふたりの名前がついている。
ふたりの銅像は、プリンセス橋の南側から歩いて5分のクイーンビクトリア公園にある。

プリンセス橋には、市民の要望により1850年代にガス灯が設置された。
(Princess Bridge 皇女の橋ではなく、Princes Bridge皇子の橋である点に注意。sがひとつ少ない。)


メルボルンは、1835年に現在のクイーンズ橋のたもとのヤラ川の側(現在のエンタープライズ公園)を最初の拠点として殖民が開始された。
ヤラ川の北部の現在のシティ側、エリザベス通りとフリンダース通りを軸に発展していった。
同時にヤラ川の南側の地区もほぼ同時に開発が進む。当然、ヤラ川を渡る要望は非常に強くあった。
最初の橋は、木製で1844年に完成。
橋は、Robert Balbirneという個人に貸し出され、彼は往来する人々が料金を徴収していた。
それまでは渡し舟で人や物資は往来していた。
ヤラ川の両岸に構脚を設けてそこに橋をかける木造のトレスル構造(trestle)。

第二の橋は、David Lennox の設計で1851年に架けられた。
1846年3月20日に時の総督チャールズラトローブによって礎石が置かれた。
この時、ラトローブ総督は、橋の名前をプリンセス橋と名づけた。
当時のロンドン橋とほぼ同じ様式の橋げたは両側に1本のみのシングルスパン構造で、材質は、砂岩。
砂岩のシングルスパン構造の橋としては、当時の世界最長の橋であった。
ロンドン橋よりも60cm短いだけで、当時とすれば最先端の技術。
この橋は、メルボルンの急速に増大する交通量にも35年の間、耐えてきたが、老朽化により1884年に解体。
第二のプリンセス橋 ヤラ川は、当時よりかなり川幅は、広がっている。
豪州図書館画像

現在のプリンセス橋は、三番目の橋。
1886年に建設を開始して、1888年10月4日に完成。

トラムの導入やフリンダース駅を通過する列車の路線の拡大、列車車両数の増大などプリンセス橋に限らず、フリンダース駅や、当時存在したプリンセス橋などヤラ川一帯の再開発が必要になった。
メルボルンの建築家John Grainger (1855-1917)によって設計されDavid Munroによって建築。

橋にかかっている鋳鉄(鋳物)製のランプは1920年代に付け加えられた。

礎石は、1886年9月7日に置かれた。
橋の費用の1/3をメルボルン市当局が拠出。
残りをサウスメルボルン、セントキルダ、マルバーン、ブライトン、コーフィールド、ムーラビンの各市が供出。
建設は、David Munro & Co。
David Munro自身、メルボルンの有名な橋の建築家であった。
まずヤラ川の川幅を2倍に広げる工事から始められた。
これは洪水など治水目的であった。

1800年代における豪州最大の橋の建築事業であると同時に、豪州最大のシビルエンジニアリングであった。
使用鋳鉄:2000トン、鍛鉄1000トンという鉄の使用量からも判るように、巨額の費用と労力を要した未曾有の工事であった。日本ではまだ官営八幡製鉄所が出来る前の話。
全ての鉄を英国などから輸入していた。多量の金塊がメルボルンにあったからこそ出来たとてつもない贅沢な輸入品であった。
橋げたには、ビクトリア産のブルーストーン、橋げたの上の門柱には大理石、アーチ部分、横げた(beam)、欄干にまで高価な鋳物が使われている。
1888年(明治21年)という年代と近代工業があった欧州から世界の反対側に位置する豪州を考えあわれると驚異的な大工事であったことがわかる。

1880年代は、メルボルンは建設ラッシュであった。
その中でも、プリンセス橋、フリンダース駅は、当時のメルボルンっ子でも驚く規模だった。
タウンホールと併せて、メルボルンっ子の待ち合わせ場所、デートコースであった。
フリンダース駅とセントポール大聖堂の向かい側に立っているプリンセスブリッジホテル(現ヤング&ジャクソン)が建設されたのは、1861年。

プリンセス橋には、当時世界で二番目に大きいとされた凱旋門がかかっていた。
プリンセス橋凱旋門

この時期、世界一の金余り都市であったメルボルンは、あちこちに門を作っていた。
スワンストン通りのフリンダースレーン北側(現在は、シティスクエアのブルネッティケーキの場所)には、キングスアーチ
ラッセル通りとコリンズ通りの交差点にはクイーンズアーチ

スワンストン通りとリトルバーク通りの交差点には、中華門
バーク通りのスワンストン通りとエリザベス通りの中間点(マイヤーの前)には、Duke アーチ
コリンズ通りのマーケット通りとウィリアム通りには、Butter Arch。
エリザベスとスワンストンの間には、ドイツアーチ
1914年のメルボルンのアーチ群

残念なことにこの見事なアーチ群は全て取り壊されてしまった。
ビクトリア州公文書館web 


当時は、ケーブル式の複線のトラムを採用していた。
ケーブルトラムは、1885年に開業して、1940年まで運行していた。
メルボルンの市内の10数箇所にケーブル操作場(Powerhouse)を設置して、そこから道路地下に設けたパイプの中をケーブルを走らせてた。
パワーハウスの当初の動力源は、石炭。石炭ボイラーで蒸気を作り、その動力でフライホイールを回す方法。
トラム自体には、動力はなくケーブルをつかむ、又は離すという作業で、路面を走った。
メルボルンのケーブルトラムは、総延長75km、トラム車数1200台、17ルートという、歴史上で最大のシステムであった。バーク通り西端に本社を置くMelbourne Tramway and Omnibus Companyによって運営されていた。
メルボルン市博物館(旧財務省ビル)で映画を見ることができる。

プリンセス橋の北東のたもと、現在、フェデレーションスクエアがある場所には、プリンセス橋鉄道駅(Prindes Bridge Railway Station)があった。
1859年に建設されたもので、エッピング線、ハーストブリッジ線またブライトン線、ホーソン線などメルボルンの南東部、北東部への路線への終着駅。
完成当時は、プリンセス橋駅は、フリンダース駅とはつながっていなかったが、数年後には、スワンストン通りの地下を掘ってフリンダース駅とつながった。
その後、プリンセス橋駅の重要性は次第になくなりフリンダース駅に吸収された。
1964年にプリンセス橋駅は解体された。
現在でもフリンダース駅の14番、15番、16番ホームは、プリンセス橋駅のなごり。

プリンセス橋の北東の岸壁にはプリンセスウォーク倉庫群(Princes Walk Vaults)があった。
この倉庫群は、1889年から1890年にかけてプリンセス橋の建設の際に、Alfred W McKenzieの設計により作られた。
またトラムをプリンセス橋の上を通す関係上、この界隈のエンジニアリング上、非常に強固な構造が必要であった。
1891年2月9日に市当局はこの地区を正式にプリンセスウォークと名付けた。
この一帯は、Federation Wharfと呼ばれていた。

プリンセスウォーク倉庫群は、ヤラ川側にドアを設けた20室の個別の倉庫から成っており、10本の支柱が間を支えている。
表面化粧板は、当時のメルボルンの建設によくみかけるBlue StoneであるHarcoat Granite(花崗岩)。
プリンセス橋は、メルボルンの代表する橋であり、当時の資金を注ぎ込んで華麗な装飾に仕上がっている。
倉庫群は、プリンセス橋のデザインと一致させてあり、エンジニアリング上の強固さと共に優雅なデザインを持っている。
倉庫群もプリンセス橋のに設置してあるものと同様の鋳鉄(鋳物)製の灯の台(燭台)が設置してある。

プリンセス橋の南側は、セントキルダ通りにつながっている。
1850年代にメルボルンはゴールドラッシュにより急速な拡大を遂げた。
セントキルダ地区はメルボルンの市民に取って一番近くのビーチリゾートとして発展た。
シティから一番大きな目抜き通りがセントキルダ通り。この名前が如何にセントキルダビーチがメルボルンの市民に取って重要であったかが判る。
道幅が広いのは富裕階級が馬車で向かうのに都合良いために広く取ってある。
プリンセス橋は、ロンドンのBlackfriar's Brigde(1870年完成)をベースに設計。
英国の近代技術は、直ぐにメルボルンに直輸入されていた。
大英帝国の中でもメルボルンは、別格視されていた。
もちろん帝国陸海軍と産業を支える金塊を供給していたからである。

Prince's Bridge

 公式Web    Wikipedia  Princes Bridgeと凱旋門(画)

 Walking Melbourne   Walking Melbourne Forum

 AD Online    豪州伝記集

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プリンセス橋にあった凱旋門(Municipal Arch)

メルボルン市内のあちこちに作られた凱旋門は、1901年5月のオーストラリア連邦成立を記念して建てられたもの。
左の写真は、市内側から撮ったもので、キングスドメイン公園方面が見える。




プリンセス橋にあった凱旋門。 キングスドメイン方面から市内を撮ったもの。

 

ラッセル通りとコリンズ通りの交差点にはクイーン・ビクトリアアーチ(Queen Victoria Arch)
コリンズ通りのスワンストン通りよりから撮ったもので、正面は、財務省ビル。

旧財務省ビル

クイーンズアーチの右隣の建物の場所には、現在では、T&Gビルが建っている。

T&G ビル

ボーイスカウトの少年ふたりが歩いているのは、ケーブルトラムの軌道。
ふたりの両隣が軌道。ふたりの真ん中の線は、ケーブルが走っている。ケーブルトラムの営業時間中は、ケーブルが常に走り続けている。

 スワンストン通りには、エドワード7世アーチ(King Edward VII Arch)
エドワード7世アーチの向こう側に見えるのは、タウンホール。
従ってエドワード7世アーチは、リトルコリンズ通りの辺りに建てられていた。
人々が集まっているのは、現在のカフェリンコントロの前。
まさか大型チェスを見ているのではないだろう。

Cafe Lincontro


 ドイツアーチ
コリンズ通りには、ドイツアーチ(German Arch)があった。 明確な場所は、わからないが道が平坦なところから、スワンストン通りとエリザベス通りの辺りと思われる。
日本の国旗も上がっているのが面白い。

 

バーク通りのデュークアーチ(Duke's Arch)
デュークアーチの右後ろの建物は、中央郵便局GPO
今も変わらない姿。

GPOトップ

デュークアーチの右後には現在ではマイヤーデパートがあるが、この時代にはまだマイヤーは、バララットで商売をしており、メルボルンのこの場所に最初のマイヤーデパートを設立したのは、この写真の10年後のこと。既存の店を買収しているので、この写真に写っている建物がマイヤーの前身ということになる。



 バーク通りの市民アーチ(Citizens Arch)

遠くにケーブルトラムが見える。

非常に多くの市民が集っていることに驚く。

 スワンストン通りとリトルバーク通りの交差点の辺りには、中華門があった。

中華門の右側のふたつの建物は、現在でも残っている。

中華門の現在

左側の1階は、現在はANZ銀行。
240 SWANSTON STREET
ビクトリア州遺産指定
Heritage Inventory (HI) Number
H7822-1347
右側は、Day Tour 旅行社が入っている。
226-228 SWANSTON STREET
Heritage Inventory (HI) Number
H7822-1510


中華門




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