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カーネギー Carnegie ロスタウン Rosstown


2024年6月30日(日) 従来版
カーネギー Carnegie
ロスタウン Rosstown
Marara Road reserve
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カーネギーは、開発者でこの地区の地主であったウィリアム・マレー・ロス(William Murray Ross)にちなんでロスタウンと呼ばれていた地元のロスタウンホテル、 Rosstown Road、ロスの奥さんのレイザに由来する Leila Road、ロスの邸に由来するGrange Roadなどである。邸宅The Grangeは分割されて住宅街になっている。

撮影データ iPhone XR
絞りF2.4 1/903秒 ISO感度 32 
2024年1月17日18:23 板屋雅博 撮影
緯度:37 53 12.1 S
経度:145 3 27.0 E
標高:56.70m


ロスは、1825年に英国リバプールに生まれ、ロンドンで保険ブローカーを営業していたが、1852年にメルボルンに移民し、シティのコリンズ通りに事務所を設けて土地ブローカーとして活動した。
1857年、ロスは将来の土地分割と開発の為に土地購入を開始した。コーフィールドの中央部に8ヘクタールの土地を購入した。更に80ヘクタールの土地を購入し、更に400ヘクタールのの土地を購入した。1860年代中ごろにはコーフィールドの5分の一、価値にして2万ポンドを所有してた。1875年にはロスタウンの開発を進めて、メルボルンのアーガス紙に広告を載せた。


ロスは、挑戦的で(ambitious)であったが、最終的には失敗したロスタウン・プロジェクトを進めた人物として知られている。1860年代は、コーフィールド市議会議員として活発に活動した。1875年にロスは、エルスタンウィック駅から砂糖工場までの鉄道を敷設する請願書を政府に提出した。エルスタンウィック駅は、メルボルン・ホブソン湾鉄道(Melbourne and Hobson's Bay United Railway Company :M&HBUR))の駅であり、その支線を作る計画であった。この請願書は否決されたので、ロスは1876年に改めて提出した。今回は、砂糖工場から更にオークレーまで路線を伸ばすという計画であった。オークレーは、メルボルンへの鉄道路線はまだなかった。当時、ギップスランドまで鉄道を敷設する計画が検討されていて、この請願書は、長期間政治的な検討課題(political saga.)となった。


ロスタウン・プロジェクトは、大型の砂糖だいこん(sugar beet)精製工場、原料、製品、資材運搬用鉄道、住居などで構成されロスの名前に由来する名称を持っていた。
1875年にロスは、ロスタウンのプロジェクトの詳細を明記した企画書を公表し、首都の端にあたるメルボルンとオークリー(Oakleigh)の中間地点で同年に工場の建設を始めた。ロスタウン鉄道(Rosstown Railway)は、現在のサンドリンガム線のエルスタンウィック駅からパケンハム線のオークレー駅までで、砂糖だいこんを精製工場へ、精製された砂糖をポートメルボルンへ輸送する計画であった。工場が生産に失敗した為に、鉄道は使用されないままになり、最後には解体されて、土地は売却された。しかしながら住居は良く販売できた。ロスタウンの町は徐々に発展して、1879年にメルボルンまでの鉄道がオープンするに至った。


ギップスランド鉄道線は、当初はM&HBURのメルボルンーエルスタンウィック駅から延長される予定であった。しかしM&HBURは、法外な料金を要求した為、オークレー駅から線路を延長することを政府は決定した。新しいギップスランド線へエルスタンウィック駅からオークレー駅に走らせることは利益に適っていた為、ロスの郊外線が検討された一方でM&HBURと困難な交渉をしたことで、政府は民間に線路を任せることを躊躇させ、やはり認可は下りなかった。1877年にグラハム・ベリー(Graham Berry)がビクトリア首相となり、ロスの支持者のひとりであったジョンウッド(John Woods)がビクトリア鉄道大臣に指名された。同年7月、ビクトリア立法議会のメンバーグループが砂糖工場を訪問し、建設の進展に感銘を受けた。


その結果、ロスタウン鉄道提案を審査する専門委員会が立ち上げられた。同年8月に非常に好意的なレポートが作成された。ビクトリア政府によるM&HBURの買収に対して論争が起こり、ウッズを含む政府の多くのメンバーは、民間鉄道へ慎重な考えとなった。1878年10月16日にようやくロスタウン鉄道建設の法律が国会により認可され、11月に許可証が交付された。鉄道は5年以内に建設完了することが条件であった。1879年4月にオークレーからギップスランドまでの鉄道がオープンした。ロスタウン交差点鉄道法(Rosstown Junction Railway Ac)が可決された、ロスは既に債務超過に陥っていて、資本を鉄道建設を開始できる水準に上げようと努力していた。NZ銀行を通じて6千ポンドにして1883年に建設は開始され、最初の鉄道が同年11月に敷設された。ロスは鋼鉄製より軽く安いビクトリア鉄道から譲り受けた錬鉄製のレールを使用した。鉄道はエルスタンウィック駅とオークレー駅の交差点で新線に繋がっていてビクトリア鉄道との共同運営であった。ロスは、モーディアロック(Mordialloc)線交差点で意見がぶつかった。


ロスはシンプルは平面交差を計画したが、ビクトリア鉄道は認可しなかった。ロスは交差点の土地を当初は所有していたがビクトリア鉄道へ売却しており、利害関係(garner favour)があった。ロスタウン鉄道法の5年の起源が数週間後に迫り、ロスは議論をする時間がなくなった。建設は緊急に進められ、多くのコーナーは時間短縮の為にカットされた。枕木は自然の土地の上に当時の標準ゲージ610mm又は910mmに対して3.7mのゲージで設置された。枕木は地中に設置されレールに接しないある場所もあった。枕木が足りなくなった時には、近くのフェンスの柱が使用された。鉄道の最後のセクションが設置されたのは、1883年の5カ年の最後の日の夕暮れであ。建設は一応完了しており、モーディアロック線交差点を除いてロスは認可を受けた。モーディアロック線はロスタウン鉄道との一時的な交差点を含めて2年前に完成していた。


ロスの事務所は、コリンズ通り西にあったビクトリア州議会土地投資ビルディング協会(Victorian Permanent Property Investment and Building Society)の事務所であった。同協会は投機家のデビッドムンロー(James Munro)が作った。
ロスは1904年に他界した。ロスの失敗した砂糖精製工場はロスのフォーリー(Folly:愚行、新奇な建物)として知られたが、1908年に解体された。

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