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エルウッド/エルスタンウィック

ポイントオーモンド公園

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2012年8月11日(土)
ポイントオーモンド公園 Point Ormond Reserve
エルウッド Elwood
メルボルン Melbourne
この地区の地図Googole Map

セントキルダヨットハーバーの南には、緑地帯が広がるポイントオーモンド公園がある。その先に小高い丘となったポイントオーモンドがある。セントキルダは、初期の時代には、東欧からの移民を受け入れた場所であり、歴史的にも重要な場所である。

撮影データ Canon EOS 5D 絞り優先AE 評価測光 絞りF14.0 1/100秒 ISO感度 100 露出補正 オート JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM
2010年12月27日 板屋雅博 撮影

シティ中心部

 ポイントオーモンド丘は、ポイントオーモンド緑地帯のエルウッドカナル(人口川)の直ぐ南に位置する。丘の上からは、メルボルンやメルボルン湾(ホブソンズベイ)を見渡せる。この丘は、急な傾斜があり、赤い砂岩でできており、赤い絶壁レッドクリフとも呼ばれた。最近の150年ほどで波に洗われてかなり削れてきている。エルウッドやセントキルダ地区は、湿地帯であった為、ポイントオーモンドの砂岩も埋め立てに利用された。
ポイントオーモンドは、ヨーロッパ人の移民の前は、原住民族アボリジニの部族ブヌロン族(Bunurong)の集会場所として利用されていた。英国による移住が1935年にははじまり、1840年には、セントキルダ地区の最初の墓地が造られ、メルボルンの最初の検疫所がおかれた。


シティ中心部からリッチモンド方面

 1840年、大型帆船グレンハントリー号が感染性発熱又は腸チフス疫病者が乗っていることを示す黄色の旗を揚げて、メルボルン湾に入ってきた。それ以前にタスマニアのホバートで腸チフスが流行し、シドニーでは感染性発熱が発生していたためメルボルンの住人は大いに恐れた。当時のメルボルン総督チャールズラトローブは、グレンハントリー号のブキャナン船長にレッドクリフ沖に停泊するように命じ、誰も検疫所から外出しないように監視した。
健康者と病人のふたつのキャンプが設置された。グレンハントリー号が到着して2か月後にやっと最後の移民者が検疫所から出ることを許された。スコットランドからの移民者のうち、10名が航海中に死亡。更に3名が検疫所で死亡し、ポイントオーモンドの丘に葬られたが、その後、セントキルダ墓地に移動している。

中央左は、ウェストゲイトブリッジ
ウェストゲイトブリッジ

グレンハントリー号の悲劇から150年後の1990年に移民者の子孫がポイントオーモンドで集り、ブルーストン製の記念碑が丘のふもとに設置された。
メルボルンのグレンハントリー通りと、サバーブは、グレンハントリー号の悲劇に由来している。

  クインズクリフフェリーの検疫所参照
 

  1860年年代には、畜殺場が置かれた。当時は、水道が設置されてなく、エルスタークリークは、畜殺処理の汚水で汚染され、悪臭の被害が起きている。
1890年代には、ふたりの著名な女性によりビクトリア石炭採掘会社が設立された。ポイントオーモンドでも採掘されたが、狙いの高品質石炭は採れず、低品位の褐炭しか出なかった。
最近では、建国200年記念式典で、かがり火が焚かれ、映画などが撮影された。


正面は、エルウッド公園とビーチ。
その先は、ブライトン地区。

 ポイントオーモンドの名前は、メルボルンの著名な政治家フランシスオーモンドの父、キャプテンオーモンド船長に由来する。
オーモンド船長は、1839年にメルボルン湾に寄港。
フランシス・オーモンドは、RMIT大学の前身であるメルボルン勤労男性専門学校や、メルボルン大学オーモンドカレッジを設立している。

メルボルン大学オーモンドカレッジ

正面は、サンドリンガム地区

  メルボルンシティ中央部
右側の海岸には、ポイントオーモンド緑地帯とエルウッドカナル川の出入り口が見える。
手前の通りは、オーモンド・エスプラネード。ジョギングする人が多い。


 Point Ormond Pdf File

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