シティ案内

今日の 一枚へ

The Alderley  タートルカフェ エルウッド Elwood 照明

メルボルン百景トップ

エルウッド/エルスタンウィック

alderley

Elwood wiki

エルウッド歴史

エルウッド周辺

Street Lighting

 ナーハム・バーネット

2021年11月28日(日)  responsive版
The Alderley  タートルカフェ エルウッド Elwood
リッチモンド Richmond
メルボルン Melbourne
The Turtle - Google マップ

1920年建築の「アルダーレイ」は、エルウッド交差点に立地するランドマークである。グレンハントリー通りとオーモンド通りの交差点にある。建物の中に7つの店舗が運営されている。
設計は、メルボルンの著名な建築家ナーハム・マーネット(Nahum Barnet)である。当時最新のアーツ&クラフトスタイル(Arts and Crafts style)が使われている。

撮影データ Canon EOS 5D 絞り優先優先AE 評価測光 絞り 5.0 1/250秒 ISO感度100 露出補正0 オート JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L /USM 撮影:板屋雅博 撮影2010年12月27日 18:36

 1800年代の半ばに、メルボルンでは、人口的な光源の欠如は、夜間の行動を一時的なものとして制限した。全ての種類の隠された罠があった。深い溝(gully), どぶ(ditch), わだち(rut) くぼみ(pothole)などが歩行者を待っていた。ロンドンでは1820年代からガス灯が街路に設置されていたが、メルボルンでは最初の街灯は宿屋の主人によって設置された。法律によって日暮れから日の出まで宿屋の外部に灯火の設置が定められていた。J.T. Smithが1847年にクイーン通りの劇場の入り口にオイルランプ(oil lamps)を設置したのが最初のひとつであった。1849年にウィリアム・オバートン(William Overton)は、スワンストン通りの店舗にガス灯( gas lamps )を設置した。


 1851年にはプリンセス橋への街路に設置された。52年には、メルボルン市は菜種油(colza oil lamps)200基を街灯として設置した。1855年には交通量の増大に対応して、バーク通り、スワンストン通りの各交差点やフラッグスタッフの丘に街灯が設置された。一般道路用ガスランプの設置は、1857年8月に始まり、414基が設置された。ラドウィング・ベッカー(Ludwig Becker)の1857年の絵画、月光の旧プリンセス橋とセントポール大聖堂(Old Prince's Bridge and St Paul's by moonlight)には、シティへの玄関口に歩哨としてガスランプが設置されているのが描かれている。街灯は、警官と同等の防犯効果があると何度も云われている。

 1840年代、シティの夜間は、良識ある市民にとって恐怖の場所であった。初期の街灯は、あまり明るくなく照明効果は低く、また技術的な問題や天候、こどものいたずらなどで故障が頻発した。
1870年代には、民間3社が都市ガスを供給して街灯を運営した。1879年8月には、MCG(メルボルンクリケットグランド)でフットボールの試合が電気式ランプの下で開催された。1881年7月にオーストラリアン電気会社(Australian Electric Co.)がアーク式電気街灯(arc lamps)をスワンストン通りとイースタン市場に設置した。

 1882年に電気灯がメルボルン図書館(State) Library)に設置された。ガス灯が通路のともし火程度であったが、電気灯は、夜を昼に変えるほどの効果があった。1887年頃には、バーク通りはガス灯と電気灯で有名となった。1889年に議事堂の外側にも電気式ランプが設置された。1893年には、スペンサー通り発電所が設置された。94年にはシティ北側のラトローブ通りまでアーク式ライトが設置された。1915年には、街灯が設置された道路は285kmに達した。メルボルン市の技術者H.R. Harperが1911年にアメリカを視察した際の白く輝く街路(White Ways)にはまったく適わなかった。


 ハーパーは、英国の地方都市よりはメルボルンの勝っていると考えたが、シカゴやNYの街灯には感銘を受けている。街灯は、単に歩行者の助けではなく、都市の品格の問題と云えた。資本主義社会における都市の不可欠なインフラであった。多くのメルボルンシティの横丁裏道は1900年頃に開発された。警察によると裏道は、酔っ払い、売春婦や他の犯罪の温床であった。ヤラ川沿いのプリンセス橋波止場は、街灯が乏しいと非難された。ホーソン紅茶ガーデン(Hawthorn Tea Gardens )へ通うモーターボート連絡船の常連客は、比較的安全なプリンセス橋を使わないように説得された。


 1910年に女性州委員会(National Council of Women)は、夜間の市内公園の犯罪抑制を目的として公園内の照明改善を要求した。1909年のサマータイム制度導入委員会(Select Committee upon the saving of daylight)の報告書が提出された。女性キリスト教禁酒連盟(Woman's Christian Temperance Union)の事務局長は昼間時間の延長は若い女性が街歩きをする時間が休みを取ることより長くなると考察している。店舗店主による土曜日半日休暇協会(Shopkeepers' Saturday Half-Holiday Association,)の会長は、街灯があれば人々は夜間の路を歩いて酒を飲むだろうと考えた。警察長官のThomas O'Callaghanは、多くの人々が外出すれば、犯罪も増えると云っている。Field Naturalists' Clubの名誉事務長Francis G.A. Barnardも同様であった。

 ホテル、金融機関、宗教団体、商業団体は、権威やステータスを高める為に、建物の外側に照明を取り付けた。低所得者層が住む地区は照明からは取り残されていた。1880年代にはメルボルンは街灯が都市化や進歩の象徴であった。ゴールドラッシュ期から100年後まで、高所得者層の需要によってもたらされたものである。


このページのトップへ

Copyrights (C) 2005-2019 Melbourne Hyakkei All Rights Reserved.

inserted by FC2 system