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ニューポート市民商業地区  Newport Civic and Commercial Precinct

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 メルボルンの産業史

ニューポート

ウィリアムズタウン線


2019年7月21日(日)
ニューポート市民商業地区  
Newport Civic and Commercial Precinct
ニューポート Newport
メルボルン Melbourne
この場所の地図 Google Map

ニューポートは、メルボルンCBDから7km離れたインナーサバーブである。ホブソン湾市の一部である。ウェストゲート橋経由で車で10分又はフリンダース駅から電車で20分のの距離にある。

撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 1/400 F8.0 ISO感度 100 太陽光 露出補正 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM 2017年1月16日8:44 板屋雅博撮影

wiki   VHD

 ウィリアムズタウン交差点の場所に1862年頃から定住がはじまり、電信電話局が1869年に作られた。1881年にニューポートに名称変更された。それまでのビクトリアン鉄道局(Victorian Railway)の主要工場であったニューポート鉄道工場( Newport Railway Workshops)がこの地域の開発に大きく関係した。鉄道工場は、ニューポート鉄道駅のすぐ南側にあった。ニューポート発電所は、もうひとつの地区の特徴である。183mの煙突がまだ現存しているが、メルボルンで最も高いタワーである。ニューポートも多種も民族が居住しており、モスク、バプテスト教会、カトリック教会、学校、入れ墨屋、アジア料理店、イタリアンレストラン、スポーツクラブ、素敵なワインバー、などニューポートが鉄道駅の近くにある。

5平方kmの中に12の子供用遊び場がる。旧鉄道変電所は、芸術センターになっており、値域のライブ音楽活動や芸術展示会、値域活動、毎月開催される芸術市場などの拠点となっている。ニューポート地域フェスティバルが毎年6月に開かれる。ニューポートの主な特徴としては、ニューポート湖、グリーンウィッチ(Greenwich Bay)、サンディ岬( Sandy Point)保護地(Conservation)である。釣り、自転車乗り、スケートボード、カヤック、ボートなどが人気スポーツである。ニューポート湖公園は、以前のブルーストーン石切り場(blustone quarr)から作られた公園で、草原(bushland)のオアシスとなっている。公園は、33ヘクタールの広さがあり、地元の植物が広範囲に植えられている。(revegetated)ペイズリー公園(Paisley Park)には、スポーツジム、水泳場、ゴルフコース、サッカー場、ローンボーリング場、バトミントンセンター、小型鉄道クラブ、ラクロス場などがあり、ホブソンベイ市の主要スポーツ公園である。

 場所は、メイソン通り(Mason Street)、ミルズ通(Mills)りの交差点にあり、アトラスノースとの境界線にある。グリーンウィッチ保護地(Greenwich Reserve)とザ・ストランド( The Strand )は、ニューポートと湾を結ぶ場所にある。邸宅と近代的なアパート群がザ・ストランドに沿って、途切れることなくメルボルンCBDの景色につながっている。グリーンウィッチ保護地は、ヤラ川からポートフィリップ湾に向かって、ワーミーズボート引き揚げ地(Warmies Boat Ramp)がある。ニューポート湖小学校(Newport Lakes Primary School)は、1855年7月8日設立で、長く興味深い歴史を持っている。継続して運営されている行政管轄小学校としては西部広域メルボルンでは最も古い歴史を持っている。1886年にニューポート、エリザベス通りに移転した。1967年に火災で大半が焼け落ちた。

Friends of Stony Creek Inc.
接着剤工場 (Glue Works)にかわ
1860年代後半から1903年まで接着剤工場がStony Creekの北側で、ヤラビルのハイド通りの現在のJemena (元 SEC)のターミナルの場所であった。接着剤工場は、最初はジョンとキャサリン ボッカラー(John &Catherine Vockler)が経営し、後にCollie and Co社が経営した。.1888年にVocklerは、行政の環境管理役人から大量の動物性物質を放置して、工場を不衛生な状態にしたとして罰金を受けた。1902年にキャサリンは、精神に異常を来たしヤラベンド精神病院(Yarra Bend Asylum)に入れられた。(be committed to)。1903年に工場は解体され、ヤラビルのボッカラー通りでCollie and Co社が膠工場として使用していた小さな煉瓦作りの建物は、完全に解体された。


Victoria Export Canning Works
ビクトリア輸出製缶工場は、1889年に EA Clark & Sons社によってStony Creekの南側のアトランティック油脂工場の敷地内に設立された。製缶工場では、英国向けにマーガリン、うさぎ、魚、鶏、狩猟肉、各種の肉、などの各種の肉の缶詰が製造された。1919年に当局より有害な悪臭の大気中への放散を防ぐように設備の向上を要求された。
しかしながら1921年に自己破産(voluntary administration)に陥った。工場は1927年頃までMr Yewersによって実質的に運営されていたが、同氏は引退して設備は売却された。

溶解工場(Smelting)兼セメント工場
1864年から1878年ころから1890年代まで溶解工場(Smelting)兼セメント工場がストーニークリークの南西の端にあった。

T. Robinson & Co 社の農場肥料工場(Agricultural Implement Makers)
1891年にストーニークリークの南側に設立され、1970年代まで存続した。

続く

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