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ストーニークリーク Stony Creek Backwash

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2019年2月16日(土)
ストーニークリーク 
Stony Creek Backwash
ヤラビル Yallaville
ウィリアムズタウン線 Williamstown Line
メルボルン Melbourne
この場所の地図

ウィリアムズタウンからフッツクレイまでヤラ川沿いに遊歩道、自転車道が整備されており、ニューポートのスポッツウッド下水処理場(現科学博物館)とウェストゲートブリッジ橋を過ぎた辺りにストーニークリーク Stony Creekがある。

撮影データ Canon EOS 5D MarkU絞り優先優先AE 中央重点平均測光 絞り 9.0 1/400秒 ISO感度100 露出補正 オート JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L /USM 撮影:板屋雅博 撮影2017年1月19日 15:47

Friends of Stony Creek Inc.

右側に見えているのが、ウェストゲートブリッジ橋である。ウェストゲートブリッジ橋の真下と云っても良い場所にある。ストーニークリークには自然観察観光用に桟橋が作られており、美しい自然をいつでも見ることが出来る。

最初のヨーロッパ人の到来は、1803年のチャールズ・グリム船長のフィリップ湾調査団であった。シドニーで1801年に製造された帆船カンバーランド(schooner Cumberland)号の乗組員がストーニークリークを調査して、水質には塩分を含んでおり飲用には適さず、沼地であると記している。メルボルン最初の移民者ジョン・バットマンが1835年にポートフィリップ開拓協会(Port Phillip Association)の依頼により牧草地の調査の為に、ストーニークリークの近くに船を停めた。これが結果としてメルボルンの設立の最初となった。1848年頃、ルーク(Lucke)の死体が見つかったころで、殺人者のクリーク(Murderer’s Creek)と呼ばれた。

 1854年頃に、石切り場がストーニークリークに開設された。ハイドストリート保護地( Hyde Street Reserve)、ウェストゲート・ゴルフ場、クルックシャンクパーク公園(Cruickshank Park.)などの周辺にいくつかの石切り場が作られた。玄武岩質の石材が石切り場から算出され、小舟に乗せられて、船のバラストやメルボルンの初期の建物の建設用石材として使用された。1880年代に船のバラストや建設用資材としての使用が減少して石切り場は次第に閉鎖された。石切り場の玄武岩質石材は、メルボルン-ジーロン鉄道のスポッツウッド駅とヤラビル駅の間にあるストーニークリーク鉄道橋の建設にも使用された。建設は1856年に開始され、1858年に完成した。当時のブルーストーン製橋台は、現在も現役として使用されている。


 ハイドストリートは、ストーニークリークを横切って延長された。木製跳ね橋が現在の道路橋の場所に1880年代に建設された。いつ架け替えられたのかは知られていない。当初の木製のパイルなど木製橋の残骸は、現在の橋の下に見ることが出来る。1869年にヤラビル、ストーニークリークにメルボルン羊毛工場(Woollen Mills)会社が設立された。工場ではメリノ種の羊毛を水洗して、染色し、巻き取って、糸に織っていく工程で、最終的にはツイード地の布地を織った。この羊毛工場はメルボルンでは初めてでオーストラリアでも最も初期のものであった。最初のブルーストーン製建物は、ヤラビルのヒュー通り(Hughes Street,)に現存するモーリンセラミック(Morlynn Ceramics)ビルのファサードの下に隠されて、現在も残っている。


ビクトリア食肉缶詰工場(Victorian Meat Preserving Works)は、1870年9月にストーニークリークの北の端で現在モービルのターミナル施設がある場所に設立された。(Hyde Street とFrancis Street, Yarraville)。ハイド通り側に屠殺場があり、入江側にブルーストーン製の保存加工工場があった。加工工程は、食肉を加工して、獣脂と一緒にブリキ缶に缶詰した。缶詰製品は、ストーニークリークから延長された桟橋から小型船に積まれて輸送され、その後、大型船に積まれて世界中に輸出された。1871年には120名が雇用された。1871年に火災で工場が崩壊した。最終的には1880年までに閉鎖された。1898年頃には建物は解体されて更地となった。

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