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8インチ赤道義天体望遠鏡

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2016年2月28日(日)
8インチ赤道義天体望遠鏡
South Equatorial House
メルボルン天文台 Melbourne Observatory
メルボルン Melbourne
この場所の地図 Google Map
 
ロイヤルボタニカルガーデンの入口部分にあるのが、メルボルン天文台である。8インチ天体望遠鏡はかつて欧米各国の壮大な夢の為に建設された
。豪州の建国にもかかわる広大なストーリーである。

撮影データ Canon EOS 5D 絞り優先優先AE 評価測光 絞り 9.0 1/400秒 ISO感度100 露出補正 太陽光 JPG レンズ EF 24-70 mm f/2.8L /USM 撮影:板屋雅博 撮影2016年1月17日 16:34

 大きい方の建屋に設置された8インチ赤道義屈折天体望遠鏡

メルボルン天文台コレクション

8インチ赤道義屈折天体望遠鏡は、英国ロンドンの代表的な科学機器製作会社トロートン&シムズ社で制作され、メルボルン天文台の南館に1880年頃に設置された。1874年(明治7年)に金星が太陽面を通過するというたいへんめずらしい天体現象(金星日面通過)があり、この観測の為にメルボルン天文台が購入した。8インチ天体望遠鏡、天文台が1945年に閉鎖されるまで天文台の主要観測装置として活躍した。8インチ天体望遠鏡は、現在も同じ場所に存在して、ビクトリア天文協会が使用している。




  上野の国立科学博物館にあるメルボルン天文台と同じ8インチ赤道義屈折天体望遠鏡

金星日面通過の観測の為に世界各国の観測隊が来日したことは、日本でも大きな注目を集め明治政府に天文学の重要性を認知させた。
当時の天文学では、地球-太陽間の距離(1天文単位)が正確にはわかっていなかった。
太陽面上を通過する金星を地球上の各地で正確に観測することによって、天文単位を正しく算定できるというハレーの理論に基づき、当時世界中の科学先進国の欧米各国が国威をかけ、世界70か所以上に観測隊を派遣した。
その金星観測絶好の地の一つとして、極東の、開国後間もない明治7年の日本があった。
長崎(亜米利加=アメリカ隊、仏蘭西=フランス隊)、神戸(フランス別働隊)の他に、ディアス・コバルビアス率いる墨西哥=メキシコ隊の訪れた横浜などが観測地として選ばれた。
横浜金星太陽面経過観測記念碑

明治十三年(1880年)頃にメルボルンと同じトロートン&シムズ社の8インチ赤道義屈折天体望遠鏡を輸入して赤坂葵町に作られた内務省地理局観象台に設置した。
同社の製品は、英国内をはじめ世界各地に多く設置されており、国際的にみても、当時の国立天文台の備品としては標準的な天体望遠鏡であり、長く東京天文台(現国立天文台)において天体観測と天文学教育に用いられた。
明治維新により幕府天文方が解体され、新政府は編暦・報時・測地といった国家業務を引き継ぐため、近代的な天体観測施設の設置に取り組んだ。特に編暦を担当することになった文部省と、精密な天測が不可欠である海軍省は、観測施設の設立を強み天文台の設置となった。
文化遺産オンライン

この建屋にはふたつのドーム建物があり、真ん中を廊下で繋がれている。小さい方のドームは太陽を撮影する特別なカメラである太陽写真機 (Photoheliograph)が設置されている。大きい方のドームは8インチ赤道義屈折天体望遠鏡が置かれている。晴れた日には20年以上に渡り、このドームで太陽の写真が取られ、1700枚の太陽写真原版が現存する。ふたつの建屋は金星日面通過を観測する為に建設された。1874年12月9日に太陽と地球の距離を観測することができる希少な天体に世界中の天文学者が注目した。その日、大気は安定しており、観測環境は最高であった。金星の太陽面の通過は非常にはっきりと観測された。後半になると太陽の炎が沸き立って観測が難しくなった。と記録されている。

金星日面通過(Wikipedia)

 金星日面通過観測は、わずか2日間の6時間にわたる観測であったので、その為に建てられた建物としてはたいへん高価であった。金星日面通過現象は百数十年に1回という希少な現象であり、1874年の前回は1769年であり、英国政府は4000ポンドの巨費を投じてジェームズ・クック(キャプテン・クック)とエンデバー号を太平洋のタヒチ島まで送り出して、金星日面通過観測を行った。何のために欧米各国が大金と大きな犠牲を支払って太陽と地球の距離を図ったかというと、正確なマリンクロノメーター(Marine Chronometer:)を作るためである。マリンクロノメーターで正確な経度を図り、観測隊や軍艦を世界各地へ送り込んで、領土の拡張を図ることが目的であった。
クック船長はタヒチを目指した最初の航海で英国海軍省から特別な命令文書を受け取っていた。タヒチでの金星日面通過観測後に命令書を開けることを指示されていた。それはヨーロッパでうわさになっていた広大な南の島、テラ・オーストラリス(Terra Australis)を発見することであった。

  太陽写真機 (Photoheliograph)
太陽写真機は、ロンドンのDallmeyer社が1874年に製造し、金星日面通過観測のために購入されメルボルン天文台に1875年に設置された。毎日、太陽の観測に使われた。撮影された写真は、英国の天文学者Warren de la Rueに送られて太陽の黒点が分析された。





 金星日面通過は、19世紀には1874年と1882年に2度起こった。 その後、太陽写真機は太陽表面の活動を記録するために使われた。
8インチ天体望遠鏡は、彗星や惑星の観察に使われた。1882年の次の金星日面通過は、122年後の2004年であった。この時は天文ファンには面白いイベントであったが、前回の時のような帝国主義的な意味合いや軍事的な意味合いは無く、純粋な天文学的な意義のみであった。



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