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フィッツロイガーデン

アメリカの成立とオーストラリア

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2008年7月9日(水)
アメリカの成立とオーストラリア
キャプテンクックの生家
Captain Cook's Cottage
フィッツロイガーデン Fitzroy Garden
メルボルン Melbourne
この場所の地図 Google Map

今朝は、4℃ほどの低い気温でした。空は快晴の模様ですが、市内から郊外にまで広範囲の霧がメルボルンを覆っていました。午前10時ころまで霧がありましたが、その後は快晴の良い天気になりました。

昨年の今日2007年7月9日(Windsor Hotel


 キャプテンジャームスクック(James Cook)
豪州東海岸を始めて探検した人で、現在のオーストラリア政府に直接つながる英国オーストラリア植民地の成立のきっかけを作った偉大な航海者、船長です。
クック船長が英国王立科学協会(Royal Society)によって南太平洋の天文学調査に出発したのは、1766年のことです。その少し前、ヨーロッパ諸国の最大の関心事は、アメリカ大陸の争奪戦争でした。1492年イタリアジョノバ生まれのクリストファーコロンブスにアメリカを発見して以来、スペインがアメリカ南部の植民を独占していました。一方、フランスは、現在のカナダから五大湖周辺までの北部アメリカを占領していました。イギリスの最初の入植は1607年のバージニア上陸です。1620年には有名な清教徒のプリマス上陸が記録されています。

キャプテンクックの生涯

 イギリスが他の欧州諸国と違ったのは、大量の囚人を送り込んだのです。しかし囚人とは名ばかりの政治経済の混乱による軽微な犯罪者ばかりでした。1600年代前半だけで50,000人から100,000人が囚人移民として送り込まれています。遅れてアメリカへやってきたイギリスですが、大量の移民と海軍力で自力をつけていきます。
1652年〜74年のオランダとの英蘭戦争に勝って、オランダの本拠地ニューネーデルランドを奪ってニューヨークと改名しています。またスペイン継承戦争、オーストリア継承戦争でも勝ち、フランスとの交渉でルイジアナを獲得していきます。1770年ころまでにアメリカ大陸の権益はほとんどイギリスが握るに至ったのです。
ジェームズクック船長が、南太平洋の航海に出発したころには、こうしたイギリスのアメリカでの成功とイギリスの航海技術の蓄積や、海軍力が背景にありました。

 アメリカ大陸を独占したイギリスですが、1776年のアメリカ合衆国の独立によってその努力が水泡に帰したのです。
イギリス本国での政治経済の乱れによる囚人の増加に対応する流刑先を失った英国が、新しい流刑先植民地として、クック船長が詳細に調査報告書を提出していたオーストラリアに目をつけたのは必然の結果でした。
米国とオーストラリアが共に英国の囚人流刑先であったことは特筆すべき事実です。

クック船長とカンガルー

最初の移民団

  この家は、クック船長が生まれ育った英国ヨークシャーの実の生家です。1933年に売りに出されたのをメルボルンの実業家が買い取ってメルボルンに寄贈したものです。キャプテンクックは、ビクトリア州にやってきたことはありません。



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