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フィッツロイガーデントップ
シンクレアの居宅
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2008年10月24日(金) シンクレアの居宅 Sinclar's Cottage フィッツロイガーデンズ Fitzroy Gardens メルボルン Melbourne この場所の地図Google Map シンクレアの居宅は、フィッツロイガーデンの中央部のクックの小屋とカフェコンサーバトリーの中間に建っています。クックの小屋に比べて訪れる人もほとんど無く、その由来もまったく知られていません。 昨年の今日 2007年10月24日(オーモンド カレッジ ) Canon EOS 40D シャッター速度 1/100 秒 絞り数値 F10.0 測光方式 マニュアル ISO感度 100 画質圧縮率 RAW 今日の為替レート:1A$=64.54円(最近の最安値更新) フィッツロイガーデンは、1848年に当時のラトローブ監督官の指示によって場所が確保され公園に整備されました。ゴールドラッシュにより植民地政府の財政がゆたかになった1855年にコンサーバトリーの設置が計画されました。 1857年にジェームズシンクレア(James Sinclair 1809−1881)が、ビクトリア植民地政府によって植物園責任者(Head Gardener of the land)に指名されました。当時は、フィッツロイスクエアという名前でしたが、1862年にニューサウスウェールズ植民地の総督の名前を取ってフィッツロイガーデンズの名前が付けられました。 フィッツロイガーデンズは、西のスプリング通りには植民地の主要政府機関、北側には、セントパトリック大聖堂などの重要な教会、東側には、政府要人の私邸があり、公園としての重要さは、ロイヤルボタニックガーデンズを除くと、他の公園とは比較にならないほど重要でした。 その後、1881年に亡くなるまでの25年間、シンクレアは、植物園の責任者として整備に努めました。 フィッツロイガーデン公園のデザインは、Clement Hodgkinsonが行いました。 シンクレアも自らたくさんの木々を植林しています。植物園の初期の頃には、繁殖が早い原生のガムの木を多く植林していましたが、植物園の歴史とともにヨーロッパ原産種エルムなどを多く取り入れています。 City of Melbourne ジェームズシンクレアは、1809年にスコットランドで生まれ、ロンドンで美術と庭園造形とガーデニングを学びました。ロンドンのキュー植物園でガーデニングの経験を積んでいます。キュー植物園は、大英帝国の世界中の植民地からの植物を集めた当時、世界で最も重要な植物園です。その後、独立してロシアのニコラス皇帝の庭園を造成し、セントアン帝国勲章を受章し、ヨーロッパの全てのロシア庭園への立ち入り許可を受けています。クリミア戦争勃発により、1854年に英国に戻ったシンクレアは、当時、ゴールドラッシュで名高いメルボルンへ転居してきました。 豪州伝記集(James Sinclair) 豪州伝記集(Clement Hodgkinson) ちょうどその頃、ビクトリア植民地初めての本格的な庭園の造成を計画していたメルボルン市当局の要請によりシンクレアが庭園責任者に指名されました。 フィッツロイガーデンが英国の伝統を引き継いで格調高いのもシンクレアの才能と努力によるところが大きいのです。 フィッツロイガーデントップ このページのトップに戻る