シティ案内

今日の一枚へ

フィッツロイガーデン

グレイ通りの泉 Grey Street Fountain

メルボルン百景トップ

2016年2月17日(水)
グレイ通りの泉
Grey Street Fountain
フィッツロイガーデンズ 
Fitzroy Gardens
メルボルン Melbourne
この場所の地図 Google Map

フィッツロイガーデンズの西側にグレイ通りの泉がある。フィッツロイガーデンズに数あるモニュメントの中で唯一、造営当初からあるモニュメントである。フィッツロイガーデンズを設計したのはメルボルンの公園の父と云われるクレメント・ホギングソンであった。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU 絞り優先AE 評価測光 絞りF5.0 1/200秒 ISO感度 100 露出補正 オート JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM
2015年1月21日11:34 板屋雅博 撮影


  グレイ通りの泉(Grey Street Fountain)は、メルボルンの公園の中で最も古いモニュメントの泉である。ガーニカーク(Garnkirk)が制作したとされるが、どのような人物なのか特定できない。シンプルなデザインで池の中に火山岩で作られた島の上に設置された3台の脚付きの鉢であるタッザボール(tazza bowls)で構成されている。

植民地政府調査開発局の副局長クレメント・ホギングスの監督の下、1863年に制作が開始された。
当初のコンセプトは30.5mの直径の池の中央に岩の塊を置き、噴水を15m吹き上げる計画であったが、実際には実現していない。

クレイ通りの泉の池はいくつかの小島があり水生植物やシドニーコーチグラス( Sydney couch grass)が茂っている。



 1968年、メルボルン市委員会がクレイ通りの泉を解体しその頃行方不明になった連邦政府首相首相ハロルド・ホルトを記念して日時計を設置する計画が持ち上がった。市の計画が明らかになると、800名ほどの市民が反対運動を起こした。結局、日時計計画は廃止されクレイ通りの泉は存続された。
クレイ通りの泉はフィッツロイガーデンズが作られた時から、元の位置にある唯一の庭園装飾物である。
ハロルド・ホルトは、メルボルン大学クインズカレッジで法律を学んだ。弁護士になった後、政界に入り、1966年から1967年まで第17代豪州首相を務めた。1967年12月17日の夏の日、モーニントン半島のポートシー(Portsea)で泳ぎに出かけ、行方不明になった。

Clement Hodgkinson

 フィッツロイガーデンズ公園を設計監督したのはクレメント・ホギングソンである。ホギングソンは英国の博物学者、探検家、土木技師、調査開発家である。ホギングソンはNSW植民地で調査、探検を役人として行ったあと、ビクトリアへ移り、1855年に地方調査官として雇用され、1857年から1年間、ビクトリア植民地調査開発局長官となった。
1857年にアルバートパークのセントビンセントガーデンズを設計し、1864年から1870年に造営された。1860年にホギングソンは政府保有原生林の調査責任者になり、フィッツロイガーデンズなどの調査を開始した。1861年から1874年までビクトリア植民地の政府所有地、調査開発局副長官であった。1874年に、ホギングソンはビクトリアの森林の育成管理プログラムを確立した。中央森林委員会が設置されホギングソンもメンバーとなった。

eMelbourne

Fitzroy Gardens

 クレメント・ホギングソンの主な業績

1862年 フラッグスタッフガーデンズの基本計画 
フィッツロイガーデンの設計と監督

ノースフィッツロイで英国ビクトリア女王から1865年にエジンバラガーデンズが恩賜され、ホギングソンが設計。

1867年 トレジャリーガーデンズを設計 英国国旗ユニオンジャックに似せて設計。

1867年 セントキルダレクレーションリザーブ(現、アルマパーク)を設計

・カールトンガーデンの一部設計変更

・マリボローのプリンセスパークの設計

Wikipedia

 1873年、ホギングソンはメルボルン公園総責任者に任命され、1年後に公職から引退した。引退後にホギングソンはメルボルン墓地を設計し、1882年にメルボルン公園管理委員会のメンバーになった。1883年に一時的に公職に復帰し、メルボルンの公園全部を管轄する委員会のメンバーに任じられた。ホギングソンは科学の総帥であるビクトリア・ロイヤル・ソサエティのメンバーでもあった。ホギングソンの提出した穀物やワイン栽培に利用されるビクトリアの岩石と土砂に関する論文は自然歴史博物館の自然哲学大学で議論された。ホギングソンは1856年に自然哲学大学の副学長に就任している。1859年から1860年までロイヤル・ソサエティの最高委員会のメンバーであった。またバークとウィルスの悲劇の探検隊の組織委員会のメンバーであった。

このページのトップに戻る 

inserted by FC2 system