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キングスドメイン公園

キングスドメインの銅像たち 

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(毎日更新酔ってなければ)
2007年6月12日(火)
キングスドメイン(Kings Domain)の銅像たち 
メルボルン Melbourne

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(クリックで拡大します。)

ギリシャの民族衣装に身を包んでキングスドメインを歩くグループ。子供たち、若者、年配の男女などギリシャ移民の一団です。ギリシャの国旗とオーストラリアの国旗も持っています。ギリシャ、オーストラリアのセレモニー会場へ向かっています。
昨日までの画像 

昨年の今日 2006年6月12日

 Sir John Monash(1865-1931)
将軍、エンジニア、モナッシュ大学の名前の由来です。先祖は、ユダヤ系のポーランド人です。両親は、1854年にメルボルンに移民してきています。モナッシュは、1865年に西メルボルンで生まれています。メルボルン大学を卒業しています。当時のビクトリア州の唯一の大学です。エンジニアとしては、ヤラ川のプリンセス橋、サンドリッジ橋、モレル橋の建設、いくつかのビルの建設に関わっています。モナッシュは、将軍としてのキャリアーより、退役後のメルボルンでの活動により、理想のオージーとして知られています。
尚、モナッシュ大学の設立には、直接には関係していません。

 Sir (Ernest) Edward Dunlop (1922-1993) 将軍。
第二次世界大戦中に日本軍の捕虜。
ビクトリア州Wangarattaの生まれ。
1934年メルボルン大学薬学部卒業
メルボルン大学中は、ラグビー部。卒業後には豪州ナショナルチームの一員で、史上初めてNZのオールブラックスを撃破したチームのメンバー。ロンドンで外科医の学位を取得。第二次大戦中は、中東で豪州軍医療部に所属。日本が参戦してきた為に本国防衛の為にインドネシアのジャワ島のバンドンへ豪州軍部病院長として移動。1942年2月26日に日本軍のジャワ島占領によりバンドンで日本軍の捕虜となる。彼の優れたリーダーシップの為、捕虜の指揮官にとしてジャワ島、続いてタイへ移動されられます。そしてタイではビルマータイ鉄道(戦場にかける橋で有名)の建設に捕虜のリーダーとして従事しました。

 Sir Thomas Albert Blamey 1884-1951 将軍 第一次大戦中は、トルコのガリポリ(Gallipoli)でのANZAC軍に従軍。第二次世界大戦では、豪州陸海軍統合司令長官、連合国西太平洋連合軍ではダグラスマッカーサー将軍のもとで司令官。1945年9月2日の日本軍の降伏の際には、東京湾での米軍ミズーリ号(USS Missouri)でマッカーサー将軍と共に、日本軍の降伏(ポツダム宣言)の調印式に立ち会い、豪州を代表して調印しています。

 Albert Edward VII  1841-1910
英国及びアイルランド、インド帝国の国王
ビクトリア女王の長男。
プリンセス橋の名前のプリンスは、Albert Edwardが皇太子(Prince of Wales)であった時に名付けられた。アルバートパーク(Albert Park)も彼にちなんでいます。
母のビクトリア女王の統治が50年間も続いたために、英国史上最も長い期間、皇太子でいました。彼の時代をエドワーディアン(Edwardian)、エドワード期と言います。彼は平和的な人で、ヨーロッパ、特にフランスとの関係を良好にして、多くの芸術を英国に取り入れたことで評価されています。
(Albert Edward VIIの銅像は、クイーンビクトリアガーデンにあります。)

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