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メルボルン魚市場 melbourne fish market

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メルボルンのマーケット

2019年6月16日(日)
メルボルン魚市場 
melbourne fish market
バットマン公園 Batman Park
ノースバンク Northbank
メルボルン Melbourne
この地域の地図 Google Map

1800年代半ばのメルボルンでは新鮮な魚は常に大量の需要があって良く売れていた。最初の移民はビクトリアの海岸線の湾や入り江で捕れる豊かな魚介類が食料源としてメルボルンに供給されることを良く理解し歓迎していた。メルボルンのビリングゲート魚市場は、プリンセス橋で開かれ、ビクトリア中から集まった魚業者が街中の魚屋に業界類を販売した。

撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 1/100 F10.0 ISO感度 100 太陽光 露出補正-1/3 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM
2017年1月21日17:17 板屋雅博撮影


一般的な海の魚は、タイ類(snapper)、こち(flathead)、かます(sea pike)、サケ(salmon,)、ます(salmon-trout)、ぼら(mullet)、にしん(herring)、ダツ(garfish)などであった。
1860年までに魚介類卸売取引は、フリンダース通りとスワンストン通りの交差点あたりに自然発生的に発生していた。取引される業界類の大半は、メルボルンの南東部にあるウェスタンポート(Western Port )からプリンセス橋に船で輸送されていた。1860年3月、初めての公設魚市場がこの場所に設置することが提案された。
1865年ー1892年
ビクトリア期中期の目的指定型建築物である市場ビルがフリンダース通りとスワンストン通りの交差点である現在のフリンダース駅の場所に建設された。
ロンドンのBillingsgate魚市場

melbourne fish market

フリンダース駅(Wiki)
フリンダース駅は、魚市場の隣に建設された。


 新しい魚市場:彫刻  Walter Hart, The Australian News, March 1865.

新設の魚市場は、オーストラリアでは初の目的指定型建築物として1865年12月23日にオープンした。白色レンガと化粧しっくいレンガを建材として建設され、巨大な中央ホールは、高さ16mで、周囲にはスレート葺き天井の4つの部屋があり、業界類の小売や、一般の購買客用のアーケードがあった。2番目の入り口近くには12の魚卸売商の店舗があった。中央ホールではせり市(オークション)が行われ、水道の泉から新鮮な水が噴き出ていて業界類を洗うシステムがあった。手押し車は、中央ホールまで入ってくることが出来た。


 セントボール大聖堂の入り口階段部分から見た魚市場 現在のフリンダース駅の場所
, Weekly Times, 1895.

魚市場の最初の魚が入った籠は、一ロット30セントで販売された。1866年2月までに毎週魚籠400個(約12トン)と伊勢海老1バッグが取り扱われた。
毎日捕れたて魚介類類は、フランクストン、ウェsタンポートのヘイスティング(Hastings)、クイーンズクリフなどから馬車で市場に運ばれた。グレートオーシャンロードのアポロベイ、ポートアルバートなどの遠い場所からは、細枝で編んだ籠に入れるなどの輸送に工夫してメルボルンへの蒸気船に積んで生きたまま運ばれた。

 1884年 メルボルン鉄道会社は、フリンダース駅の拡大の為に、魚市場に移転を要求した。魚市場は、移転先と新しいビルを探すことにした。1888年にこーフィールドからメルボルン南部のバクスター( Baxter)まで鉄道が完成し、フランクストンからメルボルンまで捕獲後、3時間で魚が鉄道輸送にて運ばれるようになった。鉄道輸送の開始によってポートランドのように遥かに遠い港からの魚の輸送が可能になった。魚市場への輸送速度が速まり、輸送量も拡大したことにより魚の取扱量が格段に増加した。取扱量の増加により魚市場の施設に対する要望や圧力が強まった。食肉市場のような施設で魚を取り扱うことは不適当であり、夏場には冷却設備も必要であった。
フリンダース駅とスペンサー駅を結ぶヴィアダクト高架線は、1891年11月に単線で単線で開通した。翌月12月には複線が開通したが、いろいろな理由により実際の運用は1892年まで単線で運用された。ヴィアダクト高架線は、Frederick Eslingが設計し、建設監督も行った。

 1891年ー1930年
フェデレーション魚市場
フリンダース通りとスペンサー通りの交差点

新しい魚市場、魚倉庫群、高架下店舗は、1891年に作られ、フリンダース通りの南側からスペンサー通りのにかけて5エーカーの広さであり、西側のブロックは、魚卸市場の為に取っておかれた。魚市場の裏手に鉄道引き込み線があり、鉄道の路線プラットフォームで魚が荷車で積み下ろされて市場に運ばれた。1907年頃には、年間19万箱の魚が取り扱われた。1915年頃には、ビクトリア各地の魚が主に取り扱われ、ます、こち、しろぎす(whiting)、ぼらであり、輸入は20%であった。1930年頃、オキサワラ ( barracouta)が人気になり、30年代後半には40%を占めるまでになった。うさぎや狩猟で捕獲された鳥類も魚市場の初期の時代から取り扱われた。

 市場の端の場所には市場のレストランがあり、主に鮫やさば(couta)などの料理を出していた。魚屋(fishmonger)や購買客は、魚をレストランに持ち込んでその場で、朝食用に調理してもらった。

1930年ー1958年 戦後のブーム基とヨーロッパ移民
魚のせり市は、朝6時半に開かれ、100人から200人の仲買人が参加した。2度目のセリ市はレストラン店主や小売店の為に、午前10時に開かれた。南豪州の多くの港で捕れた魚を集めて、アデレード駅からスペンサー通り駅に主にしろぎす(whiting)と伊勢海老類を満載した列車が9時に到着する為であった。新しい魚が徐々にメルボルン魚市場に入荷始めた。NSW州のエビ(prawns)、キングアイランドの魚、Bermaguiのまぐろなどであった。しろぎすはほとんどが南オーストラリア産となった。

 第二次大戦中は売値の高値制限があり、漁師の一部は、市場の監視官の監督があったが、市場の外で高値で魚を販売した。1944年には、市場の魚の55%は、ビクトリア州以外の場所で捕れた魚であった。また全ての魚の1/3は、市場の外で取引されていた。これは州内の漁師が兵隊として従軍したことや小売店や一般家庭への魚の流通が減ったことを意味している。戦後の1946年にはタスマニアとフリンダース島から伊勢海老が最初の魚介類として空輸された。1955年には冷蔵トラックが操業を始め、南豪州から鮫が輸送された。地元の魚は、トラックで輸送された。戦後の1950年代の好況期にシティの経済は拡大し、かつて無い大型トラックが使用され始め、魚市場に直近するスペンサー通り橋は、魚の搬入や荷降ろしのトラックで渋滞を引き起こした。

 竣工後60年以上が経過し、急速に劣化していて、働く人々の健康にも被害を及ぼし始めていた。壁にはひびが入り、冷蔵庫はネズミの被害に会い、作業場のスペースは不十分な状態であった。一部の人々は魚の臭いはシティに相応しくないと考え、魚市場に移転を迫った。1954年にフッツクレイの敷地が果物、野菜、魚市場の卸売の場所として提案されが。フェデレーション魚市場は、1959年に解体された。

1959年ー2011
ガラス、鋼鉄、コンクリート作りでコスト重視で機能性を追求した四角形の巨大な建物が建てられた。1958年にオープンし、14の仲卸業者の店舗が入居したが、1970年代には3業者が残り、McLaughlinsとJack Miriklis Pty Ltdの2社は現在も卸売業者として残っている。


 1960年代に最初のグラスファイバーのカバーで覆われた冷蔵装置を付けたトラックが郊外地区を走り始めた。鉄道は価格競争力を失ってトラックが取って代わった。2000年代には国内航空輸送で他州の魚がメルボルンに午前2時に到着してトラックに積みこまれた。タスマニアからはフェリーで運ばれた。1966年には鮫とこちが一番の売れ筋で、バラクータが続いた。レイク・エントランス(Lakes Entrance)が最大の漁港であり、市場の30%を供給し、サンレモ(San Remo )が12%で続いた。他州の魚は、合計で15%であった。ベトナム戦争後の1970年代にベトナム移民が増えて、魚屋や料理店を開店し、多種の魚を要望するようになった。日本食が増えて寿司用の高品質で高級魚の要望も高まった。イタリア人、ギリシャ人も増えて更に魚の種類も増えた。


  トミーラフ(オーストラリアン herring:にしん類)、ダツ、イカ、タコなどが普及してきた。これらの魚は、メルボルンではほとんど見かけなかった。2003年にビクトリア州政府は、港施設と鉄道施設の拡充の為に、フッツクレイロードの魚市場の移転を検討すると発表した。同時に運営母体の変更を決定して、メルボルン市当局から、一般企業のメルボルン・シーフードセンター社(Melbourne Seafood Centre Pty Ltd.)に変更された。2012年に25百万ドルで新しい魚市場がウェストメルボルンに完成した。果物類は、エッピングに移動したが、魚市場は、港に近い場所が必要な為に中心部に残った。


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