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ヤラパーク

パントロードオーバル Punt Road Oval

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2014年12月27日(土)
パントロードオーバル Punt Road Oval
リッチモンド オーバル Richmond Oval
(ME Bank Centre)
ヤラパーク Yarra Park
メルボルン Melbourne
この場所の地図 Google Map

AFLのメッカであるMCG(メルボルンクリケットグラウンド)のすぐそばに比較的小さいが魅力的なオーバルがある。AFLリッチモンドの本拠地パントロードオーバルである。

撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 1/1000 F5.0 ISO感度 100 太陽光 露出補正 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM
2014年1月17日10:44 板屋雅博撮影


パントロードはスポンサーの名前から別名、ME Bank Centre) とも呼ばれ、リッチモンドのヤラパーク公園の内部でMCGのすぐ東隣りに位置する。
パントロードは、メルボルンシティから東側数百mに位置し、駐車場も広大に確保できる。そのため、AFL(オーストラリアンフットボールリーグ)の前身であるVFL(ビクトリアンフットボールリーグ)の時代からAFLの初期の時代(1908年から1964年)にかけて、544試合の優勝戦が実施された。
AFLリッチモンドタイガースの本拠地であり、前ホームグラウンドであった。

リッチモンドタイガースの応援歌の中に、タイガーランドとうたわれる為、別名、タイガーランドとも呼ばれる。

  メルボルンに移民が始まって20年後の1855年10月、メルボルンクリケットクラブ(MCC)が所有していたリッチモンド乗馬場の隣りの草原でクリケットの試合の話しがリッチモンドクリケットクラブに持ち込まれた。最初の記録されているクリケットの試合は1856年12月27日から1885年1907年にかけてVFA(ビクトリアフットボールアソシエーション)に所属するリッチモンドフットボールクラブがホームグラウンドとして使用された。続いて1908年から1964年まではVFLとして使用された。第二次大戦中は、メルボルンフットボールクラブ(デーモンズ)もホームグラウンドとして使用された。デーモンズのホームグラウンドはMCGであるが、戦時中はMCGが豪州軍によってべーすとして使用されたための臨時避難であった。


 1964年にはデーモンズはMCGに復帰した。1942年の対戦組み合わせ(ドロー)によってサウスメルボルンがホーム試合としてホーソンと対戦している。その日はリッチモンドタイガースは対戦が無い日(バイbye)であった。

メルボルンの自動車保有者数が増え、シティへ通自動車数が増え、パントロードの混雑がひどくなっていた。メルボルン都市計画の一環としてパントロードが大幅に拡張された為に、ヤラパーク公園が削られた。そのため、、1964シーズン終了後、リッチモンドオーバルの収容人員は22000名に削減された。

1856年から2011年まではリッチモンドクリケットクラブのホームグランドであったが、その後、グレンウェイバリーのセントラルリザーブ公園に移転した。

Wikipedia

 当時のリッチモンドタイガースの経営者は1964年にホームグランドをMCGに変更した。. VFLの最後の試合はリッチモンド対ホーソンで1964年8月22日のことであった。
リッチモンドタイガースはパントロードオーバルを試合会場として使うことはなくなったが、練習場としてまた本部事務局として使用している。
2011年にパントロードオーバルは約20億円をかけて改装され、市民や企業が広く各種のスポーツを楽しめるようになった。Klim Swim, the VRI フェンシングクラブ、アボリジニ青少年教育センター(Korin Gamaji Institute)などが利用している。

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