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メルボルン歴史散歩 No 5 ジョンフォークナー

2009年2月1日

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メルボルン歴史散歩の第5回目は、メルボルンのもうひとりの創設者ジョンフォークナーの話である。

第4回の話は、メルボルンの創設者ジョンバットマンであったが、ジョンバットマンには、最大のライバルがいた。
ジョンフォークナー(John Pascoe Fawkner 1792-1869)である。 ジョンバットマンとジョンフォークナーがメルボルンの創設者であると云ってよい。

ジョンバットマンがビクトリア(当時は、NSW植民地ポートフィリップ)の開拓を1834年頃に計画を立てているが、同じころジョンフォークナーも同様の計画を立てていた。
ふたりとも当時は、タスマニア植民地のロンセストン(Launceston)の住人であった。
ポートフィリップアソシエーションのメンバーも含めて、当時のロンセストンではビクトリアの開拓の話題は、かなり活発に議論されていた。


(バットマン フォークナーイン Batman Fawkner Inn ロンセストン市Cameron Streetにあり、George Streetとの交差点の近く。)

このパブは、1822年に建築されたもので、1824年からは、ジョンフォークナーの所有となっている。
このパブで実際にジョンバットマンとジョンフォークナー、ポートフィリップアソシエーションの面々がビクトリアの切り取りについて議論を重ねていた。

ジョンフォークナーは、ロンドンに生まれている。彼の父は、盗品を受け取った罪で14年の刑を受け、1803年のデイビッドコリンズ大佐が引率するビクトリアへの最初の囚人移民団の一員としてメルボルンの南のソレントへ流刑となった。その後、コリンズ大佐と共にタスマニアへの最初の定住者となった。
メルボルン歴史散歩 第三回参照。

その後、フォークナーは、ロンセストンへ移動して、結婚した後、パン屋、材木商、本屋、などを手掛けている。
1829年には、ロンセストンアドバタイザーという新聞を発行している。
この頃には、財力も蓄積されていて、Cornwall Hotelも買収している。


(ジョンフォークナーの銅像。ジョンバットマンの銅像と共にコリンズ通りとウィリアム通りの交差点の南東側の公園にある。)
この場所の地図。
行き方、コリンズ通りをトラムで西へ行き、ウィリアム通りで下車。

1835年5月には、メルボルンの最初の植民者ジョンバットマンがメルボルンの西部から北部、またメルボルン地区を探索した。
ジョンバットマンは、ビクトリアの探索の後、移住の準備のためにいったん、ロンセストンへ戻っている。
ジョンフォークナーの移民を後で知ったジョンバットマンは、激怒している。

ジョンフォークナーは、1835年4月に2本マストのスクーナー船『Enterprize』号を購入した。

バットマンのビクトリア探索の成功を聞いたフォークナーは、バットマンより遅れること2ヶ月後の1835年7月21日にロンセストンからタマール川(Tamar River)を下り、8月にGeorge Townを出発た。

ジョンフォークナー自身は、8月15日にタスマニアのジョージタウン(George Town)を出発する乗船間際になって債権者につかまってエンタープライズ号には乗船していない。


(ドックランズに停泊中のエンタープライズ号(レプリカ)。この場所は、臨時の停泊地であり、いつもは、ウィリアムズタウンに係留されている。)

エンタープライズ号のメンバーは、船長のPeter Hunter, John Lancey, George Evans, William Jackson, Rovert Marr, Evan Evans, Charles Wyse, Tomas Morgan, James Gilbert, Mary Gilvertがメルボルンの最初の定住者である。


(エンタープライズ岸壁。メルボルン最初の港町。エンタープライズ号を記念して、公園になっている。正面は、メルボルン水族館)
この場所の地図Google Map
行き方:フリンダース駅から、ヤラ川沿いに西へ歩くと10分ほど。 クイーン橋と水族館の間。

8月29日にエンタープライズ号は、メルボルン湾からヤラ川に入って行った。
当時、エリザベス通りは、メルボルンの谷底にあたり川が流れており、クイーンズ橋のあたりにあった滝The Fallの側に停泊して上陸した。

8月30日、植民者たちは家屋、倉庫を建てるために、本格的に上陸を開始した。
こうしてフォークナー一行は、メルボルンの最初の植民者となった。

フォークナーと家族は、エンタープライズ号の2度目の航海である1835年10月にメルボルンに到着している。

この日を記念して、メルボルン市では、メルボルンデーとして記念式典を行っている。 メルボルン百景参照。

フォークナー一行は、フリンダース通りを東西の通り、エリザベス通り(川)を南北の基軸に据えた。
最初の数年は、エリザベス通りから西側地区が開発の中心であった。
バットマンとフォークナーの成功を知ってタスマニアから次々に移民者たちがやってきた。

フォークナーは、フリンダースレーンとウィリアム通りの角にメルボルン最初の宿屋を開業している。
1838年には、コリンズ通りでメルボルン最初の新聞『メルボルンアドバタイザー』の発行を始めている。


(コリンズ通りの古いビルの1階にある『メルボルンアドバタイザー』を記念するプレート。クイーン通りとウィリアム通りの中間の南側のビル。)


(フォークナー公園。 セントキルダ通りを南東へ行った場所にある。
この場所の地図 Google Map

フォークナーは、コバーグ(Coburg)にPascoevilleという土地を所有し、コリンウッド(Collingwood)に自宅を持っていた。現在のPascoe Valeである。

ジョンフォークナーの名前は、メルボルンの地区(サバーブ Suburb)であるPascoe ValeとFawknerに名前を残している。
好敵手ジョンバットマンが若く不遇の内に亡くなったに対して、ジョンフォークナーは、ビクトリア植民地の最初の議会議員に選ばれるなど要職を歴任して77歳まで生存した。
墓は、Melbourne General Cemeteryにある。

前回の回答
1) 1877年から1900年頃まで、多くの移民がイギリスからメルボルンへ移民してきたが、どういう航路をたどったか?
正解 A大西洋ーホーン岬(南アメリカ最南端)−太平洋ーオーストラリア

2)帆船(ヨット)でどのくらいの時間がかかったか?
正解 B6か月   快速船の場合では、3か月の場合もあり、遅い場合は、1年もかかった。一般的には6か月。

今回の質問
1) 現在のオーストラリアの首都は?
@シドニー
Aメルボルン
Bキャンベラ
Cブリスベン
Dパース

2)上記の中で、過去、オーストラリアの首都になったことがある都市は?

参考文献
オーストラリア伝記集(Australian Dictionary of Biography) published by the Australian National University
ジョンフォークナー Wikipedia  オーストラリア伝記集 
メルボルンの歴史 Wikipedia

メルボルン歴史散歩の管理人 イタさん(Mike Itaya)  powered by

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