メルボルン歴史散歩の第7回目は、ウィリアム ロンズデール大佐(William Lonsdale 1799 -1864) の話である。
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第4回ー6回での話は、1835年に始まったタスマニアからの最初の移民団の話であった。
ジョンバットマンとポートフィリップアソシエーションや、ジョンフォークナーグループによるビクトリア(当時は、NSW植民地ポートフィリップ区)への植民の成功がタスマニア植民地へ伝わると、多くの植民者がビクトリアへ殺到した。
1年後の1836年にはその数は224名に達している。これらは、全てNSW植民地政府の許可を得ない非合法植民であった。
事態を憂慮した当時のシドニーのNSW植民リチャードバーク(Richard Bourke)総督は、状況を大英帝国ロンドンへ連絡し、全ての権限委任状を受けている。
バーク総督は、配下のロンズデール大佐に、ビクトリア統治の全ての権限を与えた。
立法、司法、行政などへの全ての権限である。
即ちロンズデール大佐がビクトリアの初めての行政長官であり、司法長官であった。
またロンズデール大佐には、シドニーの官僚などへは連絡せずに、バーク総督に秘密裏に直接連絡するようにとの特命事項が授けられている。
これは、肥沃なビクトリアの分割に対して、シドニーの官僚内部でいくつかのもめごとがあったためであり、もうひとつは、ロンズデール大佐に対するバーク総督の信頼が厚かったことを意味している。
ロンズデール大佐のビクトリアへの赴任には、ウィリアムホブソン大佐(William
Hobson)が艦長を務める大英帝国海軍軍艦『HMS Rattlesnake』が使用された。
これは、ビクトリアの不法移民者に対して、大英帝国の威信を見せつけるためであった。
また当時は、海路が唯一の移動手段であり、NSWからビクトリアへの陸路は確立されていない。
(ホブソンズベイ。メルボルンのステーションピアの西側からウィリアムズタウンの間の海のこと。)
行き方:サウスゲートの前からウィリアムズタウン行きの観光船ある。往復$25ほど。 メルボルン百景参照。
ロンズデール大佐と奥さんのマーサ(Martha),と娘のアリス(Alice)は、ホブソン艦長の『HMS
Rattlesnake』に乗って、1836年9月27日にメルボルン湾(Port Phillip)の中のホブソンズ湾(Hobsons
Bay)に停泊した。
ホブソン湾は、もちろんホブソン艦長から後に名付けられた。
またホブソン艦長は、後にニュージーランド植民地の総督になっている。
1936年10月1日に大英帝国海軍の第一種正装に身を固めたロンズデール大佐とホブソン艦長は、HMS
Rattlesnakeの兵隊と共に小型カッターボートでヤラ川をさかのぼった。
現在のエリザベス通りは、当時は川になっていて、クイーン橋の北側でヤラ川に流れ込んでいた。
この地が、メルボルン最初の岸壁(現在のエンタープライズ岸壁)になっており、ロンズデール大佐一行もこの場所から上陸した。
(メルボルン最初の政府事務所があった場所。その後、メルボルン税関として本格的な建物が建設された。現在は、移民博物館。)
行き方:フリンダース駅からフリンダース通り沿いに徒歩5分。 右側は、マーケット通り。
ロンズデール大佐は、不法移民者の代表であるジョンバットマンやトンプソン博士と会談をしている。
不法移民者たちも、自分たちが政府から正式許可を得ていないことは良く判っており、自分たちが既に獲得した土地が法的に許可されるかどうかは、非常に不安に思っていた。
ロンズデール大佐は、シドニーから運んできた材木や建築資材で、ビクトリア最初の政府建物をヤラ川そばに、建築した。
この建物は、後に本格建築されてメルボルン税関になり、現在は、移民博物館となっている。
10月中にはふたつの船で、3名の政府調査官、2名の税関職員、食糧担当役人、30名のその他職員、30名の囚人職員がシドニーから到着し、これがビクトリア最初の役人となった。
(ロンズデール通りを走るトラム。メルボルンセントラル前。)
ロンズデール大佐は、メルボルン着任後すぐに、人口統計、土地の占有状況、原住民族アボリジニの状況などをシドニーのバーク総督へレポートしている。
ロンズデール大佐監督のもとで1837年6月にビクトリアで初めての公式の土地の売り出しが行われた。
その後、1839年までの間、ふたりの優秀な行政監理官を使ってメルボルンの都市としての主要な案件を定めていった。
メルボルンの都市の基本設計を実施したのは、ロバートホドル(Robert Hoddle)とロバートラッセル(Robert
Russel)である。
ロンズデール大佐は、職務に誠実かつ忠実、有能な官僚であり、またその配下の役人もほとんどが同様の人物であったことは、メルボルン建設の初期の時代には非常に幸いなことであった。
1939年10月ににチャールズラトローブ副総督が、NSW植民地バーク総督の委任を受けてビクトリアの総監督官(Port
Phillip Superindentent)としてメルボルンへ派遣された。
ロンズデールは、ラトローブ副総督の下で、政府の最高責任者(警察司法長官や、副財務長官)として任務を実施している。
(メルボルン裁判所。現在は、RMIT大学の一部。ロンズデール大佐が初代の司法長官兼警察長官であった。)
場所:ロンズデール通りとラッセル通りの交差点。 メルボルン百景参照。
また正式なメルボルン市が設立されるまでの臨時メルボルン市長も兼任している。
1851年にビクトリア植民地が成立した際には、ロンズデール大佐は、ビクトリア植民地首相(colonial
secretary)に任命された。
メルボルン市内を東西に走るローンズデール通りは、ウィリアムロンズデールを記念して名づけられている。
前回の回答
現在(2009年)のオーストラリアの中でサマータイムを実施していない州もある。それはどこか?Bクイーンズランド州
タスマニアの昔の名前であるヴァンディーメンズランド(Van Diemen's Land)は、何に由来しているか?
Bアベルタスマンの上司の名前。 インドネシアのバタビア(現ジャカルタ)にオランダの東インド会社のアジア総局がおかれており、ヴァンディーメンは、その総督であった。
今回の質問。
1936年のメルボルンの人口は、上記にあるように224名だが、現在のメルボルン(広域)の人口は、何人か?
@50万人
A150万人
B380万人
C560万人
現在のオーストラリアで一番、人口が多い都市は、どこか?
@メルボルン
Aシドニー
Bブリスベン
Cパース
参考文献
オーストラリア伝記集(Australian Dictionary of Biography) published by the Australian National University
ウィリアムロンズデール Wikipedia オーストラリア伝記集
メルボルンの歴史 Wikipedia
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