歴史散歩トップ

メルボルン歴史散歩 No 8 リチャードバークとメルボルン

2009年2月21日

メルボルン百景トップ

メルボルン歴史散歩の第8回目は、リチャードバーク(Sir Richard Bourke1777 -1855) の話である。

第7回の話は、メルボルン最初の行政官、警察長官、裁判官を指名されたロンズデール大佐の話であった。
メルボルンの目抜き通りに名前を残すリチャードバークは、ロンズデール大佐の上司であり、当時のNSW植民地の総督であった。

リチャードバーク総督の最大の功績は、ビクトリア(当時は、NSW植民地ポートフィリップ地区)の出来たばかりの小さな町にメルボルンと名付けたことだ。


(バーク通り。エリザベス通りから東を見て。)

リチャートバークは1777年5月4日に英国領アイルランドのダブリンで生まれ、イギリスの名門、オックスフォード大学で法律を勉強した。
卒業後、大英帝国陸軍に入り1800-1820年ころ、欧州、南米での軍事作戦に従軍している。
この時代は、フランスのナポレオンが英国を除く欧州の覇者となった時代である。
しかし海軍力に勝る英国がナポレオンに勝利した。
その後は、英国が、アメリカ、アフリカ、アジアなどで植民地を広げていき、強大な大英帝国をつくっていった。


(バーク通り。サザンクロス駅から東を見て。)

NSW植民地総督として1831年12月3日に家族と共にシドニーに着任した。
リチャードバーク総督の前任者は、ラルフダーリング総督(Sir Ralph Darling)であり、シドニーのダーリングハーバーなどに名前を残している。

当時のシドニーの植民地政府の官僚たちには派閥があり、政治的な問題も多く、バーク総督はかなり苦労している。
バーク総督は、有能な行政官であり、囚人に対する過度の刑罰を禁止、囚人も裁判を受ける権利があるとの規定を作成、囚人の人権確保など司法にも大きな影響をもたらした。
一方で、役人からは司法への介入行為として論争を巻き起こした。
オーストラリアへの囚人の輸送は、1840年に中止されたが、これもバーク総督の功績が大きい。

またNSW植民地では、すべて土地の所有権は大英帝国にあり、原住民族アボリジニには、もともとの土地の所有権はないと規定した。

宗教にも大きな改革をもたらし、それまでは、英国国教会アングリカン(Anglican Church)をNSW植民地の教会として特別扱いしていたのを廃止して、全てのキリスト教教会は、平等であると規定を変えている。
また教育にも改革をもたらし公共教育への大幅な支出を許可している。


(バーク通り。クイーン通りから西を見て。)

1835年にビクトリア(当時は、NSW植民地ポートフィリップ地区)にタスマニア(当時は、ヴァンディーメンズランド Van Diemen's Land)から、NSW植民地政府の許可を得ない不法ないくつかのグループが勝手に植民を開始したとの連絡を受けて、できるだけ早期の対処を決意している。
特にジョンバットマンは、アボリジニと契約(バットマンの契約 Batman's Treaty)を結んで、広大なビクトリアの土地を入手したことは大きな問題であった。
全ての土地は、大英帝国王室の土地(Crown Land)であるからである。
バーク総督は、直ぐに英国ロンドンの植民地省に状況を連絡し、全ての権限委任状を受けている。


(バーク通り。スワンストン通りから東を見て。マイヤークリスマスパレードにて)

1836年9月にロンズデール大佐をポートフィリップ地区に派遣した。(第七回を参照

1837年にバーク総督は、自らポートフィリップ地区を訪問している。
メルボルンの都市の基本的な都市計画や、最初の建物の場所100か所程度の割り当てを指示している。
その際、バーク総督は、時のイギリス本国の総理大臣であったViscount Melbourneの名前にちなんで、人口数百人の小さな町にメルボルン(Melbourne)の名前をつけた。
メルボルンをビクトリアの中心地にするという明確な意図があったとみられる。
尚、英国のメルボルン首相の前は、アールグレー(Earl Gray)首相であり、紅茶のアールグレーはその名前に由来している。
 メルボルン百景『最古のカフェ』参照


(バーク通り。デビッドジョーンズデパート前。マイヤークリスマスパレードにて)

1837年は、イギリス本国ではビクトリア女王(Queen Victoria 1837−1901))が即位した年であり、輝かしいビクトリア時代が始まった年である。
マーベラスメルボルンと呼ばれたメルボルンの幸運な将来を象徴するスタートであった。
メルボルンが所属するビクトリア州はもちろんビクトリア女王の名前から来ている。

メルボルンの中心部のバーク通り(Bourke Street)は、バーク総督の名前に由来している。

前回の回答
1836年のメルボルンの人口は、224名だが、現在のメルボルン(広域)の人口は、何人か? 回答  B380万人

現在のオーストラリアで一番、人口が多い都市は、どこか?  回答 Aシドニー 420万人   メルボルンは第二位。

今回の質問。
オーストラリアの中で唯一、囚人の流刑地でない州首都でないところはどこか?
@シドニー
Aメルボルン
Bブリスベン
Cアデレード
Dパース

オーストラリアは、英国の植民地であったが、どこに首都を置く予定であったか?
@シドニー
Aメルボルン
Bブリスベン
Cアデレード
Dパース


参考文献
オーストラリア伝記集(Australian Dictionary of Biography) published by the Australian National University
リチャードバーク(Sir Richard Bourke) Wikipedia  オーストラリア伝記集

メルボルンの歴史 Wikipedia

メルボルン歴史散歩の管理人 イタさん(Mike Itaya)  powered by

下記に『メルボルン百景』のサイト内検索機能を付け加えました。 調べたい単語を入れてみてください。ヤラ川、トラム、レストラン、ワイン、などなんでも検索できます。

Google
WWW を検索 ”メルボルン百景”を検索

当ページに記されている内容の信頼性に関しまして、筆者は責任をもっておりません。ご注意ください。
当ページ及び付属のページに記載されている内容や画像を無断で複製・転載・使用することを禁じます。
当サイトは、ホームページ、ブログなどにリンクフリーです。リンクされたら下記までご連絡ください。
Copyrights (C) 2005-2010 Melbourne Hyakkei All Rights Reserved.

inserted by FC2 system