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メルボルン歴史散歩 No 3 デビッドコリンズ大佐とコリンズ通り

2009年1月18日

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メルボルン歴史散歩の第三回目は、コリンズ通りの名前の由来であるデビッドコリンズ大佐の話とする。

前回の話では、1803年2月2日に英国のチャールズグリム船長は、ヤラ川の河口を発見し、翌2月3日にヤラ川を調査して飲料水がヤラ川及び、ヤラ川の支流で入手できることを発見した。これがメルボルンやビクトリアの移住開始につながる決定的な情報となってNSW(ニューサウスウェールズ)植民地経由でロンドンの大英帝国へ伝えられた。

1803年4月には、『オーシャン(Ocean)』号と『カルカッタ(Calcutta)』号の2隻の最初の植民船が英国を出発してオーストラリアへ向かっている。
この船には、467名の船員乗員の中で、299名の囚人(男性223名、女性43名、子供33名)と乗船しており、子供の中でも12歳以下が6名含まれている。
囚人は、ほとんどが軽微な犯罪がほとんどで、子供などは玩具を盗んだという程度で流刑になっている。
船員、軍人は、168名で、船長は、メルボルンの繁華街にあるコリンズ通りに名前を残しているデビッドコリンズ大佐(David Collins)である。


(メルボルンの銀座通りと云われるコリンズ通り。中でも東の端であるエキジビジョン通りからスプリング通りにかけては、パリスエンドと呼ばれるヨーロッパ風の建物が多い。
植民初期時代に富裕な医者や法律家が多く住んでいた。右側の建物は、現在は、ルイヴィトンが入っているが、もともとは富裕な外科医の邸宅であった。)
パリスエンドの行き方:フリンダース駅から歩いて15分ほど。
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1700年代の英国は、産業革命が進んだ時代である。繊維関係の機械、蒸気機関、各種産業機械が次々に発明されて大英帝国に大きな富をもたらした。
その一方でロンドンなど大都市に、農村部から大量の労働者が流れ込み、大量の低賃金労働者や失業者が町にあふれるという非常に不安定な社会であった。
急激な都市の膨張にインフラが整わずに、劣悪な環境の中で、衛生面も悪化し、工場では1日15時間以上も低賃金で働かされるという状態であった。
このため、多くの犯罪が発生して、ロンドンの刑務所はどこも囚人で満杯となり、テームズ川に船を浮かべて、囚人を収容する事態となった。
この状態を解決するための手段として選ばれたのがアメリカ植民地などへの囚人の棄民である。
ところがアメリカ植民地が1776年に独立して最大の流刑先を失ってしまった。
ジェームズクック船長が1770年にオーストラリアのシドニー周辺や西海岸を調査して植民に向いているということが判っていた大英帝国は、米国に代わる流刑先としてオーストラリアを選んだというわけである。

(コリンズ通りのラッセルからスワンストンにかけての通り。アテネウム劇場とリージェント劇場というふたつの有名劇場があり、華やかな通りである。)
このあたりの行き方:フリンダース駅から徒歩10分ほど。
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デビッドコリンズ大佐ら移民団は、1803年10月10日にメルボルン湾(Port Phillip Bay)のソレントに上陸している。正確には、ソレントから少しメルボルンへ戻った場所にあるサリバンベイ(Sullivan Bay)である。

囚人の中には、後にメルボルンの創設者のひとりとなるジョンパスコフォークナー(John Paskoe Fawkner)が含まれている。
囚人移民団から逃亡者も出ており、中には、メルボルンの西部地区で33年もアボリジニの中で暮らしたウィリアムバックレイ(Buckley)もいる。

(非常に美しいサリバンベイの海岸。)
サリバンベイへの行き方:公共交通機関はないので、車となる。
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サリバンベイでの植民地では、結婚式、葬式、誕生、学校、石切り場、郵便、病院、裁判所、水道の供給、印刷などが行われており、すべては、ビクトリアでは初めてのことである。
ところがソレント地区は、半島の先端部分に位置しており、飲料水や材木の確保が難しく、結局、1804年5月20日にソレントからの撤退することになった。

コリンズ隊長以下植民団は、1803年に発見されていたタスマニアのホバートへふたつのグループに分かれて移動している。

7か月に渡ったビクトリアへの植民は、こうして失敗に終わり、その後32年間は、ビクトリアの地は、開発されないまま放置されることになった。
ソレントには、コリンズ大佐の移民団の遺跡はほとんど残っていないが、4つの墓石、金属部品などが発見されている。

(ソレントから対岸の対岸のバラリーン半島(Ballarine Peninsura)のクイーンズクリフ(Queenscliff)へ渡るフェリーがある。)
朝7時から夕方6時まで毎時ちょうどに出発する。詳しくは、フェリーのWebサイトを参照。
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コリンズ大佐だが、タスマニアの実質的な最初の移民団となり移民に成功している。
その後タスマニアの初めての総督になっており、タスマニアのホバートにはコリンズ通り、デビッド公園、デビット教会などコリンズ総督にちなんだ場所がたくさんある。
コリンズ大佐の移民団がソレントではなく、メルボルンに上陸していたらメルボルンの歴史は、かなり違ったものになっていた可能性が高いと思われる。

前回の回答。
1) 英国人として初めてオーストラリアを調査したクック船長は、、どこを調査したか?
回答:ANSW州とクイーンズランド州及びタスマニア州。 ビクトリア州へは立ち寄っていない。

2)それはいつの頃か?
回答:A18世紀 1770年4月20日にシドニーのボタニー湾へ上陸している。

今回の質問。
オーストラリアの大都市の中で最初に出来た都市は?二番目に出来た都市は?
@メルボルン
Aシドニー
Bホバート
Cアデレード

参考文献
オーストラリア伝記集(Australian Dictionary of Biography) published by the Australian National University

デビッドコリンズ大佐、のちタスマニア総督(David Collins)

メルボルン歴史散歩の管理人 イタさん(Mike Itaya)  powered by

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