メルボルン歴史散歩の第4回目は、メルボルンの創設者ジョンバットマンの話とする。
これまでの3回の話は、メルボルン定住前の探検隊や、失敗に終わった移住団の話であったが、いよいよこれからは、メルボルンへの定住の話となる。
第3回で説明したように、メルボルンへの移住に失敗したコリンズ大佐の定住団は、1804年にタスマニアのホバートに定住を開始した。
その後の30年間で、タスマニア全土に定住者が行き渡ると、次の土地の獲得はどこになるのかが、タスマニア第二の町、ロンセストンでの話題となっていた。
当時、ビクトリアが入植の格好の地であるということは、それまでの調査で判っていたので、いつ誰が定住を開始するのかという段階まで来ていた。
最初にメルボルンにやってきたのは、ジョンバットマン(John Batman 1801−1839)だ。
1835年5月29日ににレベッカ号(Schooner Rebecca)に乗ってメルボルン湾であるPort
Phillipに入ってきている。
(ジョンバットマンの銅像。コリンズ通りとウィリアム通りの交差点の南東側の公園にある。)
この場所の地図。
行き方、コリンズ通りをトラムで西へ行き、ウィリアム通りで下車。
当時のタスマニアの主な産業は、羊毛業であるが、ヨーロッパでは、1814年にナポレオン戦争が終結し、羊毛の需要が高まってた。
タスマニアの人口は1830年には23,000人に達し、羊の数は100万頭に達していたが、その頃からイギリス人達は、徐々に土地を拡大しアボリジニと衝突するようになった。
1828年にタスマニア植民地政府の総督のジョージアーサー(George Arthur)は、アボリジニを射殺しても起訴されないという法律を作り、植民地政府はブラックライン(Black
Line)と呼ばれる作戦でアボリジニの虐殺を開始した。
ジョンバットマンはこの虐殺隊を指揮した人物のひとりである。
植民地政府はジョンバットマンの功績を認めて、2000エーカーの土地を与えた。
この結果、1850年までにタスマニアのアボリジニはほぼ全滅した。
(バットマン公園。ヤラ川の北側ノースバンクにある。キング通り橋とスペンサー通り橋の間。クラウンカジノの対岸。)
この場所の地図。
フリンダース通りを西行きのトラムに乗ってキング橋またはスペンサー橋で下車。又はヤラ川の北側沿いにプロムナードを歩いて行く。
ジョンバットマンは、メルボルンの開発事業を企画する15名からなるポートフィリップ事業チーム(Port
Phillip Association)のリーダーであった。
15名の中には、スワンストン通りに名を残すC Swanstonや、ウィリアムズタウンのGellibarand岬に名を残すTT.
Gellibrandなどが含まれている。
ジョンバットマンは、豪州の各首都を作った人々の中で、唯一の豪州生まれ(NSW植民地)である。
ジョンバットマンは、アボリジニの虐殺で得た資金で、レベッカ号を購入して、ポートフィリップ事業チームと共にメルボルンの定住に出発した。
シドニーから5名のアボリジニを通訳として雇い入れ、メルボルン湾を探検した後、ジーロン方面から徒歩で探検しながら最後にヤラ川に達している。
1835年6月6日ジョンバットマンは、メルボルンの原住民族アボリジニの1部族ウルンジェリ(Wurundjeri)からメルボルンを含む広大な土地の購入した。
しかしそのやり方は、それをバットマンの契約(Batman's Treaty)と云われ、ほとんど詐欺同然のやり方であった。
この契約は、後にシドニーのNSW植民地総督リチャードバークによって非合法と認定されている。
その理由は、全ての土地はイギリス王家のものであるからである。
(ホテルヤング アンド ジャクソン Hotel Young & Jackson Hotel, Princes
Bridge Hotel は、メルボルンでも名所のひとつである。)
この場所は、フリンダース駅のドーム正門の正面。
ジョンバットマンの定住2年後の1837年に政府による第一回目の土地の売り出しがあった。
その際、メルボルンの超一等地であるこの場所は、ジョンバットマンが100ポンドで購入している。
1839年にこの場所にジョンバットマンは、子供たちのための家を建てた。
1853年に取り壊され、倉庫が建てらた。そして1861年7月1日に現在の建物が建てられプリンセス橋ホテルが開業した。
その後、アイルランド人の金鉱夫であり、ニュージーランドで金を掘り当てたことにより大金持ちになったHenry
Young とThomas Jacksonによって買収され、名前をYoung & Jacksonに変えて、現在に至っている。
(サザンクロス駅。バットマンヒル Batmanhill。バットマンは、バットマンは、サザンクロス駅からドックランズ一帯の広大な土地を所有していた。駅の高台の一帯は、バットマンヒル、ドックランドの湿地帯は、バットマン湿地Batmanswanpと呼ばれていた。)
この場所の地図
行き方。コリンズ通り又はバーク通りを西行きのトラムに乗って、サザンクロス駅下車。
1835年の一時期、ジョンバットマンは、現在のメルボルンをバットマニア(Batmania)という名前にしていた。
1835年にメルボルンに来てから、バットマンの命運は傾き始めた。
奥さんと疎遠になり、一人息子は、クイーン橋のたもとで溺れ死んでいる。
1839年に38歳で亡くなった際には、皮肉なことにアボリジニに看取られている。
ビクトリア市場の場所にメルボルンの最初の公設墓地があり、そこに葬られたが、
その後、フォークナー墓地に移されて、現在は、そこで眠っている。
バットマンには、娘が7名おり、直系の子孫がオーストラリアで活躍されている。
(バットマンアベニュー Batman Avenue エキジビジョン通りの延伸の通り。モナッシュハイウェイへの通じる。)
この場所の地図
行き方、フリンダース通りを東行きのトラムに乗ってエキジビジョン通りで下車。
前回の回答。
オーストラリアの大都市の中で最初に出来た都市は?二番目に出来た都市は?
@シドニー Aホバート Bメルボルン Cアデレードの順番で設立された。
今回の質問
1) 1877年から1900年頃まで、多くの移民がイギリスからメルボルンへ移民してきたが、どういう航路をたどったか?
@地中海ースエズ運河(エジプト)ーインド洋ーオーストラリア
A大西洋ーホーン岬(南アメリカ最南端)−太平洋ーオーストラリア
B大西洋ー喜望峰(南アフリカ最南端)−インド洋ーオーストラリア
2)帆船(ヨット)どのくらいの時間がかかったか?
@1か月
A3か月
B6か月
C1年
参考文献
オーストラリア伝記集(Australian Dictionary of Biography) published by the Australian National University
ジョンバットマン Wikipedia オーストラリア伝記集
メルボルン歴史散歩の管理人 イタさん(Mike Itaya) powered by
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