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メルボルン歴史散歩 No 10 ロバートホドルの都市計画

2009年3月8日

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メルボルン歴史散歩の第10回目は、ロバートホドル(Robert Hoddle 1808 -1900) の話である。
ロバートホドルは、リッチモンドから北へ伸びるホドル通りにその名前を残している。

第9回は、最初の行政官、ロバートロンズデール大佐の調査官ロバートラッセルの話であったが、ロバートホドルは、もうひとりの調査官である。

ロバートホドルは、ロバートラッセルの仕事を引き継いで、メルボルンシティの実質的な設計をした人物である。

メルボルンのシティの東西の通りは、コリンズ通り、リトルコリンズ通りなど大きな通りと小さな通りに分かれている。
大きな通りを市民が通る道とし、小さな通りをメンテナンス用の通りとすることなど、近代的な設計をしたのは、ホドルの功績である。


(ホドル通り。左側は、コリンウッドタウンホール。ヤラ川側のリッチモンドからコリンウッドを通りクリフトンヒルまで北上する。)

ホドルは、1794年にロンドンのウェストミンスターで生まれた。
1812年には英国陸軍工兵隊に入隊し、測量技師となった。
英国軍の海外派兵の為に、南アで勤務した後、1823年にシドニーに到達している。

当時のNSW植民地総督トーマスブリスベン(Thomas Brisbane)は、ロバートホドルを政府の調査官補佐に任命し、クイーンズランドに派遣した。
尚、クイーンズランド州の州都ブリスベンは、トーマスブリスベンNSW植民地総督に由来している。

12年間をクイーンズランドで過ごしたあとメルボルンには1837年3月に上級調査官として到着した。
ロバートホドルは、それまでロバートラッセル(Robert Russell)によって実施されていたメルボルンの都市計画を引き継いだ。


(ホドル通りを北に見て。)

ホドルの最初のメルボルンの測量地図は、1837年3月25日に完成している。
フリンダース通りからロンズデール通りまでと、スペンサー通りからスプリング通りまでの現在のメルボルンシティとほぼ同じ区画だ。
メルボルンの碁盤目状の道路区画をホドルグリッド(Hoddle Grid)と言う。

当時の距離の測り方は、チェーン(Chain)を巻尺代わりに使うやり方である。
1チェーンは、20m。
ホドルは、メルボルンのメインの通りを1.5チェーン(30m)、小さな通りを0.5チェーンとした。
即ちフリンダース通り、コリンズ通り、バーク通り、ロンズデール通りは幅が30mである。
フリンダースレーン、リトルコリンズ、リトルバーク、リトルロンズデールは、幅が10mだ。
メインの通りは、一般の人が通る道とし、小さな通りは、業者などが積み下ろし作業をする通りとして作った。
ホドルの設計思想は、物流と消費活動をはっきりと分ける近代的なプランである。


(フリンダース通り。 メルボルンの碁盤目状の都市計画を作ったのは、ロバートホドルである。)

1ブロックは、10チェーンスクエアであり201mx201mとなる。
1mは、建設誤差を読み見込んで設計に入れてある。
メルボルンシティの東西が1マイル(1.61km)、南北が半マイル(0.8km)となっている。

メルボルンのシティは、正確な南北に対しては28度の半時計回り方向に傾いている。
これはもちろんヤラ川に対して橋を直角に架けるためである。
当時の建設技術では、橋は、川に対して直角にかけることが、橋に対する負担を少なくするベストな方法だ。

江戸の主要道路も隅田川に対して同様の設計をしている。
永代通り、晴海通りなどの江戸の通りは全て隅田川に直角にかかっている。
しかし隅田川はかなり湾曲している為に、東京の都心部の道路は、曲がりくねっている。


(ロンズデール通り。 ラッセル通りとの交差点より)

前任者のロバートラッセルとロバートホドルのどちらがよりメルボルンの都市計画に大きな貢献をしたかについては、議論があるが、
ホドルグリッドなどに名前が残っている点や、ホドルがメルボルンに来た後は、ラッセルは、建築設計に重点を置いている点を考えると
ホドルの貢献が大きいと考えられる。
ホドルは、メルボルンの都市には大きな貢献をしているが、残念ながらシティの通りには、その名を残していない。
リッチモンドからコリンウッド、更にはクリフトンヒルまで北上するホドル通り(Hoddle Street)にその名を残している。


(ラッセル通り。メルボルン監獄前から。左の建物は、旧警察本部前。)

ホドルは、シティ内部の設計を完了した後、ビクトリア大通り(Victoria Parade)や、Wellington Paradeなどシティ外への通りを設計している。
更にはNSW植民地のシドニーへ通じるシドニーロードもホドルの設計である。
ホバートホドルは、設計の合間に多くの絵画を残している。


(スワンストン通り。 フリンダースレーン、リトルコリンズ通りなど小さい通りは、業者や物流などの目的で作られている。)

前回の回答
1) メルボルンは、1835年8月30日に定住が始まったが、ビクトリア州の中で、メルボルンよりも早く定住が始まった場所がある。
それはどこか? (定住後に撤退したソレントを除く。) Cポートランド (Portland) 1834年11月に定住が始まっている。

2)それはどこからの移住か? Aタスマニア

今回の質問。
1)オーストラリアが独立国であるがそれまでは何処の植民地であったか?
@イギリス
Aフランス
Bイタリア

2)オーストラリアが独立した年は?
@1851年
A1901年
B1945年

参考文献
オーストラリア伝記集(Australian Dictionary of Biography) published by the Australian National University
ロバートホドル (Robert Hoddle) Wikipedia  オーストラリア伝記集 

トーマスブリスベン Thomas Brisbane Wikipedia  オーストラリア伝記集

メルボルンの歴史 Wikipedia

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