メルボルン歴史散歩の第12回目は、チャールズラトローブ総督(Charles La
Trobe 1801ー1875) の話である。
メルボルンの初期の頃では、最もメルボルンに貢献した人物である。
ビクトリアは、独立した植民地になる1851年以前は、NSW植民地の一部であった。
1851年にビクトリア植民地として独立したが、ビクトリア植民地政府が権限を与えられたのは、1855年である。
それまでは、シドニーのNSW植民地総督の部下であり、当初の正式な肩書きは、副総督(Lieutenant-Governors)である。
しかし実質上は、総督と考えてよいので、本文では総督とする。
チャールズラトローブ総督の主な功績
@メルボルンのシティを取り巻く主な公園を定めた。
Aビクトリアが独立した植民地になることに努力して在任中に達成した。
B在任中にゴールドラッシュが始まり、メルボルンの発展に寄与した。
ラトローブの名前を冠した事物
@シティのラトローブ通り(La Trobe Street)
Aラトローブ大学
(ラトローブ通り。スワンストン通りとの交差点。左側に見えているのはメルボルンセントラルデパート。左手のタクシーの左側に州立図書館がある。))
ラトローブの先祖は、新教徒のフランス人で、1600年代に英国へ移民してきている。
チャールズラトローブは、英国ロンドンに生まれている。
(ジョリモント駅。フリンダース駅から1つ目である。)
山登りや旅行が好きで、スイスに留学した際に、アルプスに何度も登山している。
アメリカ、メキシコなどを旅行しており、いくつかの登山記や旅行記を出版している。
ラトローブは、1835年までスイスに滞在し、村の娘ソフィア(Sophie)と結婚した。
ふたりの新婚旅行の場所は、スイスのジョリモント(Jolimont)という場所であった。
メルボルンに赴任して最初に住んだ場所が、現在のMCGの近くであるが、その場所をジョリモント(Jolimont)と名付けている。
(州立図書館にあるチャールズラトローブの銅像)
ラトローブは、1837年に英国政府の使節団として西インド諸島に派遣されている。
ラトローブは、奴隷制度に強く反対しており、西インド諸島島民の将来の教育制度についてレポートを送っている。
1839年には、オーストラリアNSW植民地ポートフィリップ区(現ビクトリア州)に監督官(uperintendent)として派遣された。
ラトローブの上司である、NSW植民地の当時の総督は、George Gippsであり、メルボルンの南東部にあるGipppslandは、Gipps総督に由来している。
その頃のメルボルンは、ウィリアム ロンズデール大佐(William Lonsdale)の指揮下で、ロバートラッセル(Robert
Russell) 、ロバートホドル(Robert Hoddle)の二人の優秀な行政官がメルボルンの都市造りを進めていた。 ラトローブは、彼らの上司として赴任してきた。
ロンズデール大佐(No7参照)、ロバートラッセル(No9参照)、ロバートホドル(No10参照)
(ラトローブ大学 メルボルンの東北、約20kmの場所にある。1967年にメルボルン大学、モナッシュ大学に次ぐ3番目の大学として設立された。)
ハーストブリッジ線の電車で、マクラウド(Macleod)まで行ってバス又は徒歩、またはトラムでBundooraまで行って徒歩。
この場所の地図 Googole Map
1840年頃のビクトリアの最も大きな問題は、英国からの囚人輸送の廃止とNSW植民地から独立することであった。
独立協会(Separation Association)が組織され活発に活動を開始している。
内政の課題も山積みしていた。
当時のメルボルンの人口は、10,000ほどであったが、少しづつ大きくなっており、ヤラ川の南部地区のサウスヤラにも多くの人が住み始めた。
ヤラ川には、渡し船しか存在せず、橋(初代プリンセス橋)の架橋、道路や水道の建設が急がれた。
本格的な政府の建物の建設は、メルボルン監獄(Gaol)から始まっている。
(ラトローブ大学構内にあるラトローブの倒立像。以前は、シティにあったが、議論があって移動になったもの。)
ラトローブ総督の功績は、まずメルボルンの周辺の緑地を公園として残すことを決めた点である。
ロイヤルボタニカルガーデン、キングスドメイン、メルボルン公園、フィッツロイガーデン、カールトンガーデンなどメルボルンのシティを取り巻く広大な公園群の多くは、
ラトローブが公園とすることを決めている。
スイスアルプスの山々を踏破したラトローブらしい配慮である。
また州立図書館(当時は植民地政府設立)を設立している。誰でも無料で使える公立図書館としては世界でも最も古いもののひとつである。
更にシドニー大学に続いて、豪州で2番目に古いメルボルン大学を設立したことが挙げらる。
即ち、ラトローブの功績は、文化芸術の面に置いて発揮されている。
ラトローブ大学のモットーは、フランス語で"Qui cherche trouve"
『真実を探すものは、やがて叶えられる。』
これはラトローブ総督の言葉である。
(ラトローブ総督の公邸)
ラトローブ総督の公邸(La Trobe Cottage)は、キングスドメインの中にひっそりと建っている。
ボタニックガーデン(植物園)のインフォメーションセンターから徒歩数分の場所にある。
この建物の建築材料は、イングランドで部材に加工された後、メルボルンまで遠路、運ばれて来て1939年に建てられた。
この小屋は1937年に現在のMCGの隣のジョリモント(Jolimont)の50、000平米の土地に建てられた。
ラトローブは家族と共に1854年にイングランドへ帰任するまでジョリモントの地でこの公邸に住んでいた。
1963年に現在の場所に移設された。
食堂(dining room)は、ラトローブによって1840年に増設された。
メルボルン建設後、5年後の当時の姿を伝える数少ない建築物のひとつ。
建築様式は、pre-separation colnial Georgianである。
(メルボルン大学。ラトローブ総督在任時代に設立を企画された。設立は、1853年)
ラトローブは、1846年から1847年にかけて、4か月だけタスマニア(当時は、Van
Diemen's Land )の総督を務めている。
ラトローブは、通常の総督が受ける陸軍、海軍での士官の経験がなく、また行政官としての経験もなかった。
芸術、スポーツ、旅行を好む紳士であり園芸学者、地質学者、動物学者が本来の姿であると思っており、政府の役人には向いていないと考えていた。
ラトローブは、1852年12月に辞表を提出している。
次の総督であるチャールズ ホッサム(Charles Hotham)が赴任した後に、英国に戻っている。
***********メルボルンの問題集*********
前回の質問の回答。
1)世界で初めて世界一周航海を到達したのは誰か? Bキャプテンマゼラン
2)何年のことか? A1522年
今回の質問。
1)メルボルンの大学の中で、設立の起源が最も古い大学は、どこか?
@メルボルン大学
Aモナッシュ大学
Bラトローブ大学
CRMIT大学
Dビクトリア大学
2)二番目に起源が古い大学はどこか?
参考文献
オーストラリア伝記集(Australian Dictionary of Biography) published by the Australian National University
チャールズラトローブ(Charles La Trobe) Wikipedia オーストラリア伝記集
メルボルンの歴史 Wikipedia
メルボルン歴史散歩の管理人 イタさん(Mike Itaya) powered by
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