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メルボルン歴史散歩 No 20 コリンズ通りバプテスト教会   1845年

2010年1月05日

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メルボルン歴史散歩の第20回は、メルボルン市(Town of Melbourne)が誕生した後の1842年から 1845年頃の話だ。

メルボルン市が発足したのは1842年だが、当時は、シドニーに本拠地を置くNSW植民地の一部であった。
NSW植民地及び英国本国での官報記載による正式決定は、1848年。
手続きに8年も経過したわけだが、各種の手続きが非常に煩雑で時間がかかったことが、メルボルンがNSW植民地から独立する大きな要因であった。

メルボルンの定住開始から市街が建設が進む頃のシドニーの植民地総督は、バーク通りに名を残すリチャード・バーク第8代総督(在任1831年-1837)年。
第9代総督は、メルボルンのギップスランドに名を残すジョージ・ギップス(在任1838年−1846年)

この頃には、メルボルンの市街地の売却も進み、テント村の生活から木造建築の家屋や2階建てのビルに住むようになった。
政府事務所、税関、裁判所、刑務所、郵便局などの政府の建築物や、学校、教会、集会所などの民間の建築物もかなり増えて市街地らしい様相になってきた。
メルボルンの碁盤目状の通り(ホドルグリッド)もこの頃には、はっきりとした都市の形成に役立ってきている。

メルボルンの最古の教会のひとつバプテスト教会を通して、1842年から1845年ころのメルボルンを見てみよう。



コリンズ通りバプテスト教会は、1845年に現在の場所に設立。
ビクトリア州における最古のバプテスト教会。
最初の礼拝は、1838年に現在の教会の場所の対面の空き地で、テントで行われた。
最初のチャペルは、現在の場所に1845年に建てられた。
1850年代に拡張が必要になり、当時の著名な建築家ジョセフ・リードに依頼された。
現在のバプテスト教会は、1862年に完成。
当時のメルボルンの教会は、ゴシック様式又はロマネスク様式であったが、バプテスト教会は、クラシカル様式を採っている。
コリンズ通りに向かって4本のコリント式円柱が特徴。
バプテスト教会のウェブサイトによると特殊な宗教建築であるよりは、より一般に親しんでもら集会所であるというバプテスト教会の意義を表している。

ジョセフ・リードの主な作品
ロイヤル・エキジビジョン・ビルディング(世界遺産、カールトン・ガーデン))
メルボルン・タウンホール(スワンストン通り)
セントポール大聖堂(フリンダース駅前)
ビクトリア州立図書館(スワンストン通り)
トレードホール(ライゴン通りとビクトリア通りの交差点)
メトロポリタン・ガス・カンパニー(フリンダース通り、セントポール教会の東隣り)


 
メルボルンの現存する教会の中で、設立が1850以前のものは、セント・ジェームズ教会(アングリカン教会大聖堂)、セント・フランシスコ教会(カトリック教会大聖堂)と、コリンズ通りバプテスト教会の3つ。

大聖堂・カテドラルでないのは、バプテスト教会だけだが、それだけ格式が高い教会と云える。
コリンズ通りの一等地に最初から教会を構えるのは富裕層に信者が多かったことを意味している。

1842年にメルボルン市(Town of Melbourne)が発足し、その後数年は、大きな事件もなくメルボルンは拡大を続けた。
1845年2月11日に、メルボルンの創始者のひとりジョン・バットマン(John Batman)の息子がクインズブリッジで溺死している。

1845年8月4日には、移民船『Cataraqui』がキングアイランド周辺で嵐にあって沈没。
乗員115人の中で助かったのは9名のみであった。
キングアイランドは、メルボルンとタスマニアのちょうど真ん中に浮かぶ南北100kmの島。
この海域をバス海峡と呼ぶが、強風で世界的に有名で、難破する船が数多い。 
キングアイランドとグレートオーシャンロードは、船の墓場として名が高い。
なおバス海峡の名前は、フリンダース船長とともにInvestigator号に同乗した船医ジョージバス(George Bass)に由来している。
メルボルン歴史散歩第一回参照。

 

1846年には、エリザベス通りとロンズデール通りの交差点にあるセント・フランシス・カトリック教会が完成して、活動を始めている。

このころメルボルンには、15の教会、16の私立学校があった。
1846年、ヤラ川にかかる最初の橋、プリンセス橋が完成。それまでは、渡船があったが、料金がかかり不評であった。

名称:Collins Street Baptist Church
住所:170 - 174 Collins Street (リージェント劇場の斜め前)
建築年:1862年
建築時期:ビクトリアン
建築様式:Academic Classical
建築家:Joseph Reed

Walking Melbourne

National Trust (B82)

VHR (0008)

 

1845年にヨーロッパでジャガイモに疫病が発生して未曾有の飢饉(Potato Famine)となった。
英国の植民地アイルランドでは、ジャガイモが貧しいアイルランド人の主食であった。
英国が対策を取らなかったどころか、飢饉のアイルランドから英国向けに食糧輸出を継続。
このために150万人以上が餓死。
人口が半分に激減する結果になった。
200万人以上が英国、米国など国外に脱出し、数多くのアイルラン人がメルボルンへ移住をしている。
アメリカではケネディ一家など多くのアイルランド移民がいるが、ジャガイモ飢饉がきっかけとなっている。
ジャガイモ飢饉は、現在も続くアイルランド独立運動(IRA)の遠因となった。
当時のメルボルンの人口は、英国系に続いてアイルランド系が占めた。
メルボルンのカトリック大聖堂がアイルランドの守護神セントパトリックであるのはこのため。
尚、メルボルンで英国人とアイルランド人が対立したという事実はない。

 

教会に過度な装飾をほどこすことを嫌うバプテスト教会の教義により内部の壁は、シンプルな漆喰の壁となっている。

このころメルボルンは、シドニーに本拠地があるニューサウスウェールズ(NSW)植民地の一部であった。
全ての決裁権は、シドニーのNSW植民地総督にあるため、船で1週間程度を要して、シドニーにお伺いをたてる必要があった。
しかし、シドニーの一般の人々、役人にとってへき地にあるメルボルンの要望などは、重要な問題ではなく早急な決裁は望めなかった。
更に重要な問題に関しては、英国本国に決裁をあおぐため、更に1年以上の歳月がかかる。
メルボルンにとって、NSW植民地からの独立はどうしても必要なことであった。
1844年11月28日ににNSW植民地からの分離を要求する集会が開かれ、英国へ要求するための代表が選ばれている。

 

メルボルンで最初のゴルフは、1847年に市内のフラッグスタッフの丘にコースを作って行われた。
同年に、オーストラリア植民地競馬会議がメルボルンで開催されている。
メルボルンが順調に発展拡大して、ゴルフは競馬などもスタートしたことが判る。

1847年7月9日に最初のカトリック教会司教James Alpius Gooldが任命されている。

 


Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 絞りF11.0 1/200秒 ISO感度 800 AWB 画質圧縮率 JPG
レンズ EF 24-70mm f/2.8L IS USM

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***********メルボルンの問題集*********

今回の質問。
1)オーストラリアの夏場を代表するスポーツは何か?

2)クリケットを作った国は?

3)クリケットは、楕円形の競技場を使うが、同様のスポーツは?


前回の質問の回答。
1)ビクトリア州とサウスオーストラリア州の時差は?  30分。

2)ビクトリア州とウェストオーストラリア州の時差は? 夏場は、3時間、冬場は、2時間
(ウェスタンオーストラリア州は、Daylight Savingを実施していない。)

3)ビクトリア州と、NSW州、クインズランド州の時差は?
NSW州との時差は無い。クインズランド州との時差は、冬場は無い。夏場は、1時間。
(クインズランド州は、Daylight Savingを実施していない。)

参考文献

メルボルンの歴史 Wikipedia  メルボルンの初期の歴史 HISTORICAL TIMELINE

メルボルン歴史散歩の管理人 イタさん(Mike Itaya)  powered by

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