シティ案内

今日の一枚へ

マーベラスメルボルン

 第11回 農業資本家の台頭 Pastralist

メルボルン百景トップ

2017年5月25日(木)
 第11回(6月号)大農場主の出現とメルボルンカップ Pastralist

マーベラスメルボルン marvellous Melbourne
メルボルン Melbourne
日豪プレス 

 1850年代、ゴールドラッシュによってバララットやベンディゴなどビクトリア北部地区は金鉱山で急速に発展したが、ジーロンやウェリビー、ウィリアムズタウンなどビクトリア西部地区は農産物の供給基地として発展した。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU 絞り優先AE 評価測光 絞りF11.0 1/320秒 ISO感度 200 露出補正 オート JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM 2012年3月19日14:46 板屋雅博 撮影

 牛馬羊豚などの家畜が英国から移民と共にもたらされ、豪州の気候に合い天敵も無く、牧畜により大繁殖し、1850年頃には既に1000万頭を超えていた。地方都市からメルボルンへの主要道路は、牛や羊の群れをひとりのカウボーイと牧羊犬数匹が追い込んでいくために幅広く作られていた。1840年代から羊毛の英国向けの輸出も始まっている。
バラライン半島や西部地区などは道路が未整備であり、帆船や蒸気船の定期航路が開設され都心に近い港まで船で搬送されてきた。



 当時の肉の年間消費量は、英国49kg、米国68kgに対してメルボルン123kgと圧倒している。123kgは350gのステーキを毎日食べられる量である。貧富の差が激しい英国では貧乏人はほとんど肉を食べられず、肉をたらふく食べられることも豪州移住の大きな魅力であった。
メルボルン西北のフレミントン、ニューマーケット家畜市場に牛や羊、豚などの家畜が集められた。マリビノン川を挟んだフッツクレイにはウィリアムズアングリスの食肉工場なども出来て大量の食肉が至近のビクトリアマーケットへ供給されるようになった。


 メルボルンの郊外には数万頭の家畜を飼育する大牧場主が生まれた。農業資本が蓄積して、豪邸を建築しメルボルン市内のビルを所有し、ビクトリア植民地議会でも主要な地位を占めるようになった。鉱業資本家と共に農業資本家も生まれ、大量の資金がメルボルンに蓄積し、マーベラスメルボルン発展の大きな要素となった。



 余談だが1859年ジーロンの大農園主が24匹のうさぎを英国から輸入して自分の農園に狩猟用に放った。10年後には数百万頭がビクトリア全体に繁殖して農作物に大打撃となる悲劇も発生している。
1860年代にはメルボルンの人口はシドニーを抜いて豪州第一の都市となり、英連邦でもロンドンに次ぐ第二の都市となった。
ニューマーケットがあるフレミントンは競馬のメルボルンカップが毎年開催される場所である。毎年9月にロイヤル・メルボルン・ショーというお祭りがあるが、ビクトリア農業連盟が主催する農業祭で1848年から行われている。
競馬は英国人の文化に深く根ざしている。豪州の片田舎の町にも競馬場があるが、競走馬も早い時期にメルボルンに輸入されている。1840年には早くもフレミントンで競馬が開かれている。第一回のメルボルンカップは、1861年11月7日(木)にフレミントン競馬場で開催された。11月最初の火曜日に定められたのは1875年からである。


 
このページのトップに戻る

inserted by FC2 system