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マーベラスメルボルン

No16 メルボルン監獄とネッドケリー

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 メルボルン監獄 2008 2007

バララット刑務所

2017年10月  日(土)
マーベラス・メルボルン 第17回 12月号
「メルボルン監獄とネッドケリー」
マーベラスメルボルン marvellous Melbourne
メルボルン Melbourne
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日豪プレス 

メルボルン監獄は1839年に建設されたビクトリア最古の刑務所であり、留置場、裁判所、民事裁判所、女性用刑務所など実際の生活に関わりが深いごく小規模の刑務所であった。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU 絞り優先AE 評価測光 絞りF5.0 1/1000秒 ISO感度 100 露出補正 オート JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM 2017年1月19日11:49 板屋雅博 撮影


 1851年、ゴールドラッシュの始まりと共に、多くのゴールド目当ての移民が流入し、わずか人口4万人ほどのビクトリアが40万人へと10倍に激増した。植民地政府にとって大きな問題となったのは、犯罪者の激増と法と秩序の維持であり、1851年からメルボルン監獄の建物を大幅に立て直した。


 メルボルン監獄やタスマニアのポートアーサー監獄は、当時最先端のコンセプトと設備を持つ刑務所で、ロンドンのペントンビル監獄をモデルとしている。中央棟を始点として放射状に延びる3つの長いブロック獄舎があった。礼拝所や入口エントランス、残存する壁は、1860年代初期の建築物である。バララット、ベンディゴなどビクトリアの主要都市に9つの刑務所が建設された。

金鉱山での一攫千金を狙った若い単身男性は、簡単に金塊輸送馬車や銀行を狙う強盗団に変身した。いわゆるブッシュレンジャーである。
オーストラリアの犯罪史上で最も有名なブッシュレンジャーであるネッドケリーもメルボルン監獄で処刑され敷地内に埋葬された。


  ネッドケリーの父はまずしい囚人移民で、小さい時から家族ごと、地域社会や警察から差別されてきた。ケリー兄弟は、家族を痛めつける警官に反発して殺害。その後、ネッドケリーは、官憲など権力に対する反抗というテーマを鮮明に掲げた。植民地政府は、駐在英国軍や警察力を使って囚人移民やまずしい者を弾圧する姿勢が強く、民衆には嫌われていた。ネッドケリーは、多くの銀行を襲ったが、殺害したのは警官のみで、貧しいものには一切、手を出さなかった。怪我人を出さないクリーンな手口や金銭やビールを人々にふるまうなど義賊として貧しい民衆のヒーローとなった。ネッドケリーが強盗の際に着用した防護ヘルメットは今でもオーストラリアのシンボルのひとつとなっている。
メルボルンシティから南へ伸びる華やかなセントキルダ通りにもブッシュレンジャーが多く現れセントキルダ強盗団として名をはせた。



 メルボルン監獄では133名が処刑され、多くは一般墓地での埋葬を拒否された為に監獄内の敷地に埋葬された。メルボルン監獄は、シティ中心部のラッセル通りを北へ300mほど歩いた場所にあり、周りには旧裁判所、警察本部が並ぶメルボルンのかつての司法地区である。現在は博物館となって内部はツアーで回ることが出来る。
なお、メルボルン監獄はネッドケリーなどの幽霊が出る場所として幽霊観光ツアーの名所ともなっている。

VHD  wikipedia

Only Melbourne  Melbourne com

bushranger Ned Kelly ネッドケリー 

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