2018年1月 3日(水)
マーベラス・メルボルン 第19回 1月号
「光と影 マダム ブリュッセル」
マーベラスメルボルン marvellous Melbourne
メルボルン Melbourne
この場所の地図
日豪プレス
メルボルンに近代化の光が差してくる中、影の部分もあった。
ゴールドラッシュで1851年に3万人であった人口が数年で30万人に急膨張し、医者や病院、医薬品は、まったく不足していた。
撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 絞り7.1 1/200秒 ISO感度 100 露出補正 オート PG レンズ EF 24-70mm f/2.8L /USM 撮影:板屋雅博 撮影2010年12月16日
抗生物質もない時代であり、不衛生な鉱山やスラム街では、多くの病人や貧者がばたばたと野たれ死んでいった。メルボルン最初の死体安置所は、フリンダース駅南側でプリンセス橋のたもとに作られ、その後30年間もそこにあった。 移民の多くは金鉱山で働く単身男性で、その金を目指してたくさんの売春婦もメルボルンに流れ込んでいた。
市内のリトルロンズデール通り界隈は、通称リトルロンと呼ばれて、材木とレンガで造られた小屋がひしめきあい、小さな路地がたくさん通る典型的なスラム街であった。
もともとは靴職人など小規模軽な軽工場の町であったが、ひしめく汚いよごれた地域であり、アイルランド、イタリア、中国、シリアなどから移民したばかりの貧しい下層階級の人々や職人などがその日暮らしで生きていた。チャイナタウンも近く、中国から持ち込まれる阿片などの麻薬などもはびこった。 安宿、安い飲み屋、売春宿、阿片窟などがたくさんあり、赤い街灯をともしていたので、レッドライト地区とも呼ばれていた。コソ泥などの犯罪者も多く、治安もメルボルン市内で最悪の地帯であった。
当時の一流紙”アーガス”は、売春婦たちは、最低最悪の女性たちで、汚れた言葉を話し、その行動もひどいと評している。
”午前11時頃から翌日午前3時頃まで、14歳から22歳くらいまでの30人ほどの若い女性が売春街をうろついている。夜中に男をあさり、隙あらば泥棒を働こうと見張っている。警察が巡回している間は、逃げ散っている。”
コリンズ通りやバーク通りの華やかな「マーベラス・メルボルン」とは対極の世界であった。
マダム・ブリュッセルという高級売春宿が、ロンズデール通りにあり、金持ちの男性を引きつけていた。マダムブラッセルとは、カロライン・ホッジソンというロンドンからの移民女性で数か所に高級売春宿を経営していた。1867年には、メルボルンの警視総監が、ロンドンから訪問していたエジンバラ候(ビクトリア女王の次男)をお連れしているという記録があり、単なる売春宿以上の高級接待所であった。
1800年代のビクトリアでは、売春や麻薬は合法であり、麻薬禁止法が成立したのは、1905年である。
リトルロン地区はいまでも高級アパート地区だが、当時を忍ばせる建物が残っており、メルボルン博物館には詳細な展示がある。
Litle Lon
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