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マーベラスメルボルン

ジョンバットマンとジョンフォークナー

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2016年10月4日(水)
ジョンバットマンとジョンフォークナー
John Batman and John Pascoe Fawkner
マーベラスメルボルン marvellous Melbourne
メルボルン Melbourne
日豪プレス 

第二回は、ジョン・バットマンとジョン・パスコ・フォークナーというふたりの悪漢によるメルボルンの開拓、植民開始の話である。


撮影データ Canon EOS 5D 絞り優先優先AE 評価測光 絞り 9.0 1/250秒 ISO感度200 露出補正 太陽光 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L /USM 2016年1月16日 15:51
撮影:板屋雅博

ザフォールズ & クイーン橋

 



 


 三人の船長によるメルボルン調査から約30年後の1834年、タスマニアでは全島の開発、分割はほぼ完了し、欧州からの開拓者たちは次の土地を探していた。ビクトリアは、NSW植民地の管轄下に於かれ、シドニーの総督は植民を許可していなかった。バットマンとフォークナーはタスマニア・ロンセストン市のパブ(現バットマン・フォークナーイン)でビクトリアの不法植民を議論していた。


 最初の不法移民者バットマンは1835年5月29日に帆船レベッカ号に乗ってメルボルン湾に入った。タスマニアでは土地収用をめぐり多数のアボリジニを植民地政府が主導して虐殺したがバットマンはそのひとりである。メルボルン湾を探検した後、ジーロンから徒歩で探検しながらヤラ川に達した。6月6日にバットマンは、原住民族アボリジニのウルンジェリ部族からメルボルンを含む広大な土地をバットマンの契約(Batman's Treaty)と云われる詐欺同然の方法で手に入れた。一時期バットマンは、メルボルンをバットマニアという名前にしていた。

 
フォークナーの移民船エンタープライズ号は、8月29日にメルボルン湾からヤラ川に入った。現在のエリザベス通りはメルボルン渓谷の谷底にあたり、飲用可能な川が流れていた為、移民船はクイーンズ橋たもとにあった滝The Fallの側に停泊。8月30日、植民者たちは家屋、倉庫を建てるために、本格的に上陸を開始した。フォークナー一行は、メルボルンの最初の植民者となった。毎年8月30日はメルボルンデーとして上陸地エンタープライズワーフで式典が行われる。



ドックランズに停泊中のエンタープライズ号(レプリカ)。この場所は、臨時の停泊地であり、いつもは、ウィリアムズタウンに係留されている。



 


 フォークナーは、フリンダース通りを東西の主要通り、エリザベス通りを南北の基軸に据え本格的に街づくりを始めた。フォークナーは、メルボルン最初の宿屋を開業し、1838年にコリンズ通りでメルボルン最初の新聞『メルボルンアドバタイザー』を発行した。
バットマンは38歳の若さで不遇の内に亡くなったが、フォークナーは、ビクトリア植民地最初の議会議員に選ばれるなど要職を歴任して77歳まで生存した。バットマン通り、フォークナー公園などふたりのジョンの名前はメルボルンに数多く残っている。


 
バットマンとフォークナーの成功を知ってタスマニアから次々に移民者たちがやってきたが、全て不法移民者であった。次回は、取締りと法の執行の為にシドニーから役人が送り込まれた話だ。

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