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マーベラスメルボルン

No.26 オーストラリア最初の鉄道と鉄道の発展 

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2018年8月10日(木)
No.26 オーストラリア最初の鉄道と鉄道の発展 日豪プレス2018 年9月号
マーベラスメルボルン marvellous Melbourne
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日豪プレス 

1854年9月12日にオーストラリア初の鉄道路線メルボルンーサンドリッジ線が開業した。ゴールドラッシュでポートメルボルンに押し寄せる移民をシティへ運ぶ為に作られた。(第7回と8階参照。)このころメルボルンの港町は、ヤラ川を遡っていったメルボルンの中心部の現在のクイーン橋の北詰の小さな桟橋(現在のエンタープライズワーフ)あった。大量に押し寄せる移民を市内中心部に迎え入れるにはヤラ川を遡るのが一番簡便な方法であった。

撮影データ Canon EOS 5D 絞り優先AE 評価測光 絞り 6.3 1/640秒 ISO感度100 露出補正-1/3 オート JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L /USM 撮影:板屋雅博 撮影2018年1月18日 10:15

ところがそれには大きな問題があった。ヤラ川が浅いため、小さな船しか遡ることが出来ないのである。1853年にメルボルン・ホブソン湾鉄道会社が設立された。オーストラリアの5植民地で合意が取れ軌間1600mm広軌で建設された。シドニー/パラマッタ鉄道の開業は1年後の1855年9月26日。主任エンジニアは、英国の主要鉄道路線技術者の甥の甥のJames Moore C. Eが1854年3月に主任技術者に選任された。Sir William Cubittは、ホブソン湾のサンドリッジに桟橋を築き、シティと桟橋間に線路を建設した。鉄道敷設作業は、1853年3月に始まった。列車は、英国に ロバート・ステファンソン社(Robert Stephenson and Company )に発注された。メルボルンのテルミナス(現在のフリンダース駅)からヤラ川をサンドリッジ橋で越えてサンドリッジ駅まで4kmであった。路線の開業は、ビクトリアン・ゴールドラッシュの最中であった。


メルボルンとビクトリアは大掛かりな社会投資を行っていた。サンドリッジ線もそのひとつであった。メルボルンターミナル駅があるフリンダース通りにはたくさんの人が詰め掛けた。チャールズホッサム第二代総督とホッサム夫人も乗り込んだ。一等列車2輌と2等列車1輌の編成であった。鉄道の時刻表と利用規則のコピーが渡された。1857年にフリンダース駅-セントキルダ線が開業し、セントキルダ-ブライトン線につなげられた。メルボルン・ホブソンズ湾鉄道会社は、セントキルダ-ブライトン鉄道とメルボルン・近郊鉄道会社のふたつの民間鉄道会社を吸収合併した。統合会社は、the Melbourne and Hobson's Bay United Railway Company.である。同社は、1878年にビクトリア植民地政府に接収され、ビクトリア鉄道となった。1900年代になって両路線とも電化された。


 両線の軌間(ゲージ)は、標準ゲージの1435mmに転換された。現在は、トラムルートの109番と96番になっている。メルボルンーセントキルダ線は、2番目の路線として1857年5月13日に開設された。メルボルンは1835年に移民が開始されたが、直ぐにセントキルダ海岸がリゾート地として人気を集めた。当初は資産家たちのリゾート地としてセントキルダ通りを通って馬車で通ったが、多くの人々がリゾート地に向かうためにメルボルン・ホブソンズベイ鉄道会社が作られ、メルボルンーセントキルダ線が建設された。1856年11月3日に入札が実施され建設会社が決められ、この辺りは湿地帯であり、多くの土木工事が必要であり、セントキルダに建物が建てられた。


  駅舎はイタリアンスタイルにデザインされ、表面は装飾レンガで化粧された。駅舎の南西入り口は半円形に造られた。
グリニッジ桟橋(Greenwich Pier)は、ジーロン・メルボルン鉄道会社(GM社)により一時的な桟橋として1857年に建設された。同社は、メルボルンとジーロン間に鉄道路線を開設する為に1852年に設立された。メルボルン・マウント・アレキサンダー・マレーリバー鉄道会社(MMA:Melbourne, Mount Alexander and Murray River Railway Company)によってメルボルンとウィリアムズタウン間に民間鉄道路線を開設する計画に連動したものであった。ふたつの路線が交差する場所がグリニッジ(後のニューポート)であった。

  MMA社(経営者:Mr.R.Coy)は1856年に資金難に陥り、ビクトリア植民地政府が事業を継承してビクトリア鉄道公社を設立した。メルボルン・ウィリアムズタウン鉄道路線は、ビクトリア鉄道による最初の路線となり、1859年1月にオープンした。GM鉄道のジーロンからグリニッジまでの客車路線は1857年6月25日に開通したが、MMA社のメルボルン・ウィリアムズタウン線がまだ開通していないので、MMA社は、独自で暫定路線、駅、桟橋の建設を実行した。一時桟橋と路線開設コストは、6000ポンドであった。桟橋は、メルボルンからジーロンへの旅客を蒸気船でグリニッジまで運び、鉄道列車に間に合うように設定された。1857年6月27日のアーガス紙には鉄道がオープンしてジーロンでの式典に向かう旅客が蒸気船でグリニッジに到着し列車を待つ様子が描かれている。桟橋は、1858年のホブソンズ湾の地図に載っている。暫定路線とグリニッジ桟橋は、長くは使用されなかった。当時の地主George Ward Coleは、GM社に対して土地の使用差し止め訴訟を起こした。


 同社は、1857年9月にビクトリア政府よりグリニッジとウィリアムズタウンの間にメルボルン・ウィリアムズタウン路線の使用許可を得た。暫定的な駅舎がウィリアムズタウン鉄道桟橋に完成し、蒸気船シチズン号(steamer Citizen)が列車に間に合うように運行された。1879年のメルボルン港の地図にはノースロード(North Road)とニューポートの路線が乗っている。場所は、現在のグリニッジリザーブの場所である。メルボルン港湾局(Melbourne Harbor Trust)は、1878年にグリニッジ湾の浚渫を開始し、1900年代まで継続した。1886年にメルボルン港湾局幹部は、ウィリアムズタウン北側の桟橋宿泊施設が無いことに注目し、旧グリニッジ桟橋の再活用と拡張を計画した。ヤラ川の流路変更つまりコード運河(Coode Canal)建設の一環として実施された。メルボルン港湾局1886年白書による。


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