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マーベラスメルボルン

マーベラス・メルボルン 第三回 役人たち Administrators

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2016年11月23日(水)
役人たち Administrators
マーベラスメルボルン 
Marvellous Melbourne
メルボルン Melbourne
日豪プレス 

第三回は、シドニーから送り込まれた役人たちの話である。

撮影データ Canon EOS 5D 絞り優先優先AE 評価測光 絞り 9.0 1/250秒 ISO感度200 露出補正 太陽光 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L /USM 2016年1月16日 15:51
撮影:板屋雅博

左は、移民博物館、旧メルボルン税関でメルボルン最初の政府の建物であるメルボルン税関の場所に建っている。

 @ウィリアム・ロンズデール大佐
行政長官、司法長官、暫定市長

1835年にタスマニアからの違法移民に占拠されたことに驚いたシドニー植民地政府のリチャード・バーク総督は、翌年、信頼が厚いウィリアム・ロンズデール大佐を行政長官、司法長官、暫定市長としてポートフィリップ(現メルボルン)に送り込んだ。
不法移民に対して大英帝国の威信を見せつけるためウィリアム・ホブソン大佐が艦長を務める大英帝国軍艦「ラトルスネーク」が使用された。当時シドニーからメルボルンへは海路が唯一の移動手段であった。


左はコリンウッドタウンホールとホドル通り。メルボルン市内の区割りであるホドルグリッドを作成したロバート・ホドルに由来する。



 1936年10月1日に第一種軍装に身を固めたロンズデール大佐とホブソン艦長は水兵隊と共に小型ボートでヤラ川をさかのぼり、 200名ほどの不法移民が集落を形成していたエリザベス通り河岸に着岸し、さっそくシドニーから運んできた建築資材で、ビクトリア最初の政府建物(メルボルン税関)をヤラ川そばに建築した。 ロンズデール大佐は、着任後すぐに、人口統計、土地占有状況、原住民族アボリジニの状況などを調査している。

メルボルン市内のラッセル通りにある地方裁判所。ウィリアム・ロンズデール大佐が整備した。



 1837年6月に初の公式土地売出しが行われ、やっと不法移民状態が解消した。 メルボルン市の基本設計を実施したのは、ロンズデール長官の副官ロバート・ラッセルとロバート・ホドルで、メルボルンの地形調査を実施し、基本的な都市プランが固まった。 メルボルンの東西の通りは、コリンズ通りなど大きな通りと、リトルコリンズ通りなど小さな通りが順番に配置されている。 大きな通りを市民用とし、小さな通りを業者の作業用として、消費活動と物流を分ける近代的な設計であった。碁盤目状の区画をホドルグリッドと言う。

左はバーク通り。リチャード・バーク総督を記念している。

  ロンズデール長官や副官たちが職務に誠実で有能な官僚であったことはメルボルンの初期の時代には非常に幸いなことであった。 バーク総督は1837年にポートフィリップ地区を訪問したが、時の英国メルボルン総理大臣の名前を出来立ての小都市に命名した。 同年は英国ビクトリア女王が即位し、輝かしいビクトリア時代が始まった年であり、ポートフィリップはビクトリアと命名された。

ラッセル通り。ロバート・ラッセルを記念している。

 マーベラスメルボルンと呼ばれたメルボルンの幸運な将来を象徴するスタートであった。 バーク、ロンズデール、ラッセル、ホドルなどの有能な行政官の名前はメルボルン市内に主要な通りとして残っている。 メルボルン湾の一部であるホブソン湾はホブソン艦長に由来する。


メルボルンの海であるホブソン湾は、ポートフィリップ湾の一部。


  Aホドル・グリッド  ロバート・ホドル
ホドルの最初のメルボルンの測量地図は、1837年3月25日に完成している。フリンダース通りからロンズデール通りまでと、スペンサー通りからスプリング通りまでの現在のメルボルンシティとほぼ同じ区画だ。メルボルンの碁盤目状の道路区画をホドルグリッド(Hoddle Grid)と言う。当時の距離の測り方は、チェーン(Chain)を巻尺代わりに使うやり方である。1チェーンは、20m。ホドルは、メルボルンのメインの通りを1.5チェーン(30m)、小さな通りを0.5チェーンとした。
即ちフリンダース通り、コリンズ通り、バーク通り、ロンズデール通りは幅が30mである。
フリンダースレーン、リトルコリンズ、リトルバーク、リトルロンズデールは、幅が10mだ。
メインの通りは、一般の人が通る道とし、小さな通りは、業者などが積み下ろし作業をする通りとして作った。 ホドルの設計思想は、物流と消費活動をはっきりと分ける近代的なプランである。
(フリンダース通り。 メルボルンの碁盤目状の都市計画を作ったのは、ロバートホドルである。)

  1ブロックは、10チェーンスクエアであり201mx201mとなる。1mは、建設誤差を読み見込んで設計に入れてある。メルボルンシティの東西が1マイル(1.61km)、南北が半マイル(0.8km)となっている。

メルボルンのシティは、正確な南北に対しては28度の半時計回り方向に傾いている。これはもちろんヤラ川に対して橋を直角に架けるためである。当時の建設技術では、橋は、川に対して直角にかけることが、橋に対する負担を少なくするベストな方法だ。

江戸の主要道路も隅田川に対して同様の設計をしている。永代通り、晴海通りなどの江戸の通りは全て隅田川に直角にかかっている。
しかし隅田川はかなり湾曲している為に、東京の都心部の道路は、曲がりくねっている。

 

 

 

 
前任者のロバートラッセルとロバートホドルのどちらがよりメルボルンの都市計画に大きな貢献をしたかについては、議論があるが、
ホドルグリッドなどに名前が残っている点や、ホドルがメルボルンに来た後は、ラッセルは、建築設計に重点を置いている点を考えると
ホドルの貢献が大きいと考えられる。
ホドルは、メルボルンの都市には大きな貢献をしているが、残念ながらシティの通りには、その名を残していない。
リッチモンドからコリンウッド、更にはクリフトンヒルまで北上するホドル通り(Hoddle Street)にその名を残している。

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