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マーベラス

No.31 ビクトリア・バラックス Victoria Barracks

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ジョン・カーティン 英語

ビクトリアバラックス 2007

Victoria Barracks

2019年1月15日(水)
ビクトリア・バラックス
日豪プレス2019 年2月号
マーベラスメルボルン marvellous Melbourne
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日豪プレス 

1851年にビクトリアでゴールドラッシュが始まり、金塊の安全な輸送を目的として、英国は豪州植民地駐留部隊の本部をシドニーからメルボルンに移した。ビクトリアバラックス(VB)は英国軍メルボルン駐留部隊の兵舎として1856年頃から建設が始まった。メルボルン駐留部隊は、それまではフラッグスタッフ公園からバットマンヒルやプリンセス橋などにキャンプをしていた。

撮影データ Canon EOS 5D 絞り優先AE 評価測光 絞り 10 1/500秒 ISO感度100 露出補正-1/3 オート JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L /USM 撮影:板屋雅博 撮影2016年1月21日 18:30


 1863年からはVBは、ビクトリア植民地軍と豪州派遣軍の統合幕僚本部となり、ビクトリアンバラックスと呼ばれた。1870年に英国軍は豪州植民地から撤退したため、VBはビクトリア植民地陸海軍の総司令部となった。
砲兵隊本部が入居、続いて他の軍隊諸本部が入居した。孤児院、移民保護団体、警察本部なども広大な敷地の一部に入居した。1872年のニュージーランドでのマオリ族との紛争や南アのボーア戦争、1900年の中国・義和団事変などの際にはVBは徴兵や出兵の調整、兵士の管理本部としての役割を果たした。



1901年に豪州連邦が成立しメルボルンは、最初の首都となり、連邦政府内閣、国会議事堂、などが置かれたが、豪州軍本部がメルボルンにあったこともメルボルンが首都になった遠因である。メルボルンが首都に定められ、初代ジョンフォレスト国防大臣はVBに国防省を置き、VBは名実共に豪州陸海空軍の総本部、国防省となった。
第一次世界大戦の際には、VBが豪州軍ヨーロッパ遠征総本部として指揮を取った。管理部門の人員が増えたためVB敷地内にあった兵舎は事務所に変えられた。
1927年に豪州連邦首都はキャンベラに移動したが、豪州軍の総本部はメルボルンに留まった。キャンベラには軍事施設がなくメルボルンのでないと指揮が取れなかった為である。




 1939年に第二次世界大戦が始まり、軍事上の重要な作戦は全てVBで決定された。
ジョン・カーティン戦時内閣首相は戦争臨時内閣をメルボルンに置いた。この時、メルボルンは2回目の豪州首都となった。
カーティン首相が、主宰した戦時委員会の2日後に日本軍の潜水艦が豪州の海岸に接近し、日本軍空軍機もメルボルンに爆撃可能な位置まで到達した。VBはビクトリア州の海岸線の防衛の為に非常な努力を行った。


 1939年9月27日から1942年4月18日まで戦争指揮室に戦争遂行委員会が置かれ、豪州軍部の全戦闘部隊はアメリカ軍ダグラス・マッカーサー将軍の指揮下に入った。マッカーサー将軍はフィリピンで米国極東軍&フィリピン軍総司令官として指揮を取っていたが、日本軍の攻撃によりマニラが陥落して、メルボルンに退避していた。戦後にマッカーサー将軍は、日本占領軍総司令官となった。

1958年には豪州国防省はキャンベラに移動した。セントキルダ通りに面した場所に設置してある二台の前込め式大砲は1854年のクリミア戦争の際にロシア軍から獲得したものである。1918年に第一次世界大戦の際に西部戦線とパレスチナでドイツ軍から獲得した2台の臼砲も展示している。

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