2019年8月15日(日)
ユーリカの反乱 Eurica Rebellion
バララット Ballarat
日豪プレス2019年9月号 No39
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ユーリカの反乱(Eureka Rebellion)は、ゴールドラッシュの最盛期1854年に、バララットで起こった金鉱山鉱夫による蜂起で、オーストラリアの歴史上で最大の事件とも云われ、その後のオーストラリアの民主化に大きく貢献し、ユーレカ精神は、オーストラリアの魂とも呼ばれている。ユーレカの十字は、今でもバララットを象徴する記章である。バララット市内東側の金鉱床のひとつユーレカ集積所(Eureka
Stockade)が舞台である。ビクトリアのゴールドラッシュで数千人の人口であったバララットは、数か月で2万人に膨れ上がり、最盛期には6万人の金鉱夫が至るところを掘りまくった。
撮影データ Canon EOS 5D シャッター速度優先AE 評価測光 絞り 4.0 1/2500秒 ISO感度100 露出補正 オート JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L /USM 撮影:板屋雅博 撮影2011年2月1日
金だけは豊富にあり、メルボルンなどから酒などは大量に輸入されていた。酒による暴力事件も多発している。バララットのゴールドラッシュは、トーマス・ヒスコック(Thomas
Hiscock)が1851年8月2日にヒスコック小峡谷と呼ばれる場所で金鉱脈を発見したことに始まる。8月19日には、バララットのいくつかの場所でも金鉱脈が発見された。またキャッスルメインなど他の場所でも金鉱山が発見された。1851年11月にメルボルン植民地政府は、金採掘ライセンス費を1ポンドから3ポンドに3倍に増やすと発表した。バララットに限らず金鉱山地区全体の金鉱夫に反対運動が始まり、一部では武器を取ったものもあった。恐れをなした政府は、一度は増税の発表を取り消したが、その後も政府による多くの規制が金鉱山地区の鉱夫に広範囲な反対運動が起こった。1853年には、金鉱山法(Goldfields
Act)が成立している。1854年12月3日にオーストラリア駐在英国陸軍と金鉱山鉱夫との間で、衝突が起こり、鉱夫22名が亡くなった。
ビクトリア植民地における最大の反乱となった。この背景には、植民地政府が鉱夫たちに大きな税金を課してはいたが、鉱夫たちの自治権を認めず、土地の購入も許さなかったことにある。バララットの鉱夫は、増税や禁酒法に非常に反発を強めていた1854年10月6日に、スコットランド人ジェームズ・スコビーが、ユーレカホテルで殺害され、数千人の金鉱夫がホテルに押し寄せた。植民地政府軍が、鉱夫たちを抑え込もうとしたが、反対に鉱夫たちは、鉱夫の権利同盟を結成して、軍と対立した。11月11日に、1万人を越える鉱夫が、ベーカリーヒルに集まり、バララット改革同盟を結成した。反乱派のリーダーには、英国やアイルランドでの民主化運動に参加した経験者も含まれ、その精神を憲章に生かしている。基本的な考えは、課税されるものは代表を送る権利があるとことで、アメリカ独立と同じである。政府軍は、増援軍がメルボルンから派遣され、12000名となった反乱軍と対立した。その結果、10月21日に3人の金鉱夫が暴動の罪で起訴された。翌11月11日の別の大集会で、金鉱夫たちはバララット改革連盟を結成した。
11月23日にベントリーは結局スコービーの殺人の罪で有罪判決を受けた。バララット改革連盟の代表は、暴動の罪で起訴された3人の解放を要求した。ヴィクトリアの副総督のホサムはそれを拒否し、バララットに増援部隊を送った。反乱軍は、アイルランド人の鉱夫が中心であったが、米国カリフォルニアのゴールドラッシュの鉱夫も200名ほど交じっており、米国製の拳銃などで武装していた。12月3日午前3時に、276名の政府軍が発砲して戦闘が開始された。どちら側が先に発砲したかは定かではないが、非常に激しい銃撃戦であった。反乱軍には女性も参加しており戦闘にも加わっている。
11月28日に軍隊はバララット入りし、金鉱夫たちと小競り合いを起こした。
反乱軍は、カナダからの移民鉱夫ヘンリーロスが考案したユーレカの十字旗を掲げた。この旗は、カナダからの移民した3人の女性によって縫われ、1854年11月29日午後2時にベーカリーヒルに翻った。生地はシルク、生地の色は青、大きなシルバーの十字が書いてあり、星は、南十字星を表している。反乱の後、ユーレカの旗は、植民地時代のオーストラリアの民主化の象徴となった。
翌日の大集会で、現在ユリーカ旗Eureka Flagと呼ばれている南十字星の旗が掲げられた。その旗は青の背景に白の十字が描かれ、その十字の中心と端に合わせて5つの白の南十字星をあしらった星が描かれていた。さらに金鉱夫たちは許可証を焼き払うという決議をした。翌日、政府側は許可証狩りを行った。それに対しアイルランド移民のピーター・レイラーを先頭とする約1,000人の金鉱夫たちは、ユリーカに防御柵を設けて砦を築いた。
12月3日早朝、280人の軍人と警察がその砦を攻撃した。その時中にいた約150人の金鉱夫は、瞬く間に圧倒され、100人以上が捕虜になった。軍隊側の5人に対し、金鉱夫側には30人の死者が出た。戒厳令が宣言され、13人の採掘者が反逆罪で起訴された。しかし、1人に対する起訴は取り下げられ、陪審員は、反乱に加わった他の者たちも無罪にした。逃亡した首謀者のレイラーと他の2人に関する有力な情報の提供には懸賞金が懸けられたが、それも後に撤回された。
この反乱を機に作られた王立調査委員会は、1854年に金鉱とその問題点を調査することになった。その報告は金鉱夫に寛大であり、政府の政策を批判するものであった。ユーリカの反乱の後、ビクトリア植民地政府は画期的な判断を下した。金採掘ライセンスが廃止され、鉱夫の権利法が制定されて安価な採掘費制度、鉱夫の投票権、土地所有権などが認められた。
メルボルンにある南半球で一番高いユーレカタワーは、ユーレカの反乱を記念したもの。
建物の金色の冠は、ゴールドラッシュを表しており、赤いストライプは、反乱の時に流された反乱軍の血を表している。青いガラスの被服カバーは、ユーレカ砦旗の背景色を表し、白いラインは、砦旗の十字架を表している。
2005年12月ビクトリア首相スティーブブラックスは、ユーリカ砦に翻ったサザンクロスの旗は、自由と民主主義を象徴しているとしてメルボルンの玄関駅スペンサーストリート駅から、サザンクロス駅に変更した。
ユーレカの記念碑
戦闘で亡くなった方々の名前が刻まれている。
現在、ユーレカの地には、ユーレカセンター記念館が立っており、バララットのツーリストインフォメーションセンターにもなっている。
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