2016年9月22日(木)
ラトローブ総督 Charls Latrobe
マーベラスメルボルン marvellous Melbourne
メルボルン Melbourne
日豪プレス
メルボルンは、別名をガーデンシティと呼ばれるほど公園が多い。公園の多くを作ったのはチャールズ・ラトローブ初代ビクトリア植民地総督である。
撮影データ Canon EOS 5D MarkU絞り優先優先AE 評価測光 絞り 10.0 1/125秒 ISO感度100 露出補正 太陽光
JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L /USM 2009年9月5日 10:57
撮影:板屋雅博
写真は世界遺産カールトンガーデンズ
メルボルンに植民が始まって4年目の1839年10月にラトローブは、ビクトリアに行政責任者である監督官として赴任してきた。当時のメルボルンの人口は3000名ほどの小さな町であった。ラトローブは役人や行政官、軍人としての経験もない文化人であり、シドニーのNSW植民地政府やロンドンの大英帝国はメルボルンをまったく重要視していなかったことが判る。
写真は、チャールズ・ラトローブ像
州立図書館前
ラトローブの最大の功績は、世界遺産カールトンガーデン、市内唯一のフラッグスタッフ公園、英国国旗をデザインしたフィッツロイガーデン、F1グランプリが開催されるアルバートパーク公園、ボタニックガーデン公園、戦争記念館があるキングスドメイン公園などを指定したことである。当時はゴールドラッシュの前で、政府として資金もなかったので、公園指定地としたのだが、十分な意味があった。公園だけでなくメルボルン大学、国立図書館、メルボルン病院などの学術文化医学施設の設立にも多大な貢献をしている。
フランス系英国人で自然や旅が好きなラトローブは、学生時代に山歩きの為に訪問したスイスで妻マリーと出会って結婚した。メルボルン中央駅であるフリンダース駅隣のジョリモント駅は、ふたりが新婚旅行に訪問したスイスの町の名前をつけたものである。
写真は、ラトローブ大学 バンドゥーラ校舎
ラトローブのもうひとつの功績はNSW植民地からのビクトリアの独立に貢献したことである。豪州に派遣される前に訪問した西インド諸島では奴隷制度に強く反対するなど、リベラルなラトローブは、1840年頃から始まったビクトリアの独立運動にも理解を示した。大英帝国の植民地政策を進めた政治家アールグレーに書簡を送るなどの活動により、ラトローブが総督在任中にビクトリア植民地が成立している。なお紅茶好きのアールグレーが作ったブレンドは有名で、メルボルン総理大臣の前任総理でもある。
ラトローブ大学、市内のラトローブ通り、ラトローブバレーなどに名を残している。
一時期ラトローブはタスマニアの総督も兼任しており、タスマニアにもラトローブ通りなどの名前が残っている。
自らが作ったキングスドメイン公園の中に、ラトローブ総督の公邸が残されている。公邸は質素な作りで、材料は英国から運ばれてきたもので、総督と云えども質素な生活であったことが判る。
ラトローブの小屋
フランス系英国人のラトローブは、スイス人の妻マリーと結婚した。メルボルン中央駅フリンダース駅の隣の駅、ジョリモントは、ふたりが新婚旅行に訪問したスイスの町の名前をつけたものである。
ラトローブ大学、市内のラトローブ通り、ラトローブバレーなどに名を残している。
アルバートパーク公園
ラトローブ通り
12.チャールズラトローブ総督(3月22日)
Wikipedia 伝記集 コテージ
アールグレー
ビクトリア総督
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