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   電信 日豪プレス2019年11月号 No40

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電信 Samuel McGowan

electrical telegraph メルボルン

Williamstown

コリンウッド

2019年9月15日(日)
電信の普及 telegraphy
まーべらすメルボルン
日豪プレス2019年11月号 No40
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電信は、世界で最初の本格的デジタル通信である。豪州は、欧米先進国からは遠く、19世紀には帆船による通信しかない時代であり、電信を通しての情報伝達への要望は非常に強かった。

撮影データ Canon EOS 5D シャッター速度優先AE 評価測光 絞り 4.0 1/2500秒 ISO感度100 露出補正 オート JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L /USM 撮影:板屋雅博 撮影2011年2月1日

 豪州最初の電信は、メルボルンとウィリアムズタウンの間で、1854年のことであった。世界最初の公式電信は、米国の首都ワシントンと港町ボルチモア間の71kmで1844年のことで、1850年頃にヨーロッパの一部で導入が始まったばかりであり、ゴールドラッシュで富裕都市であったメルボルンは、最先端の技術を世界に先駆けて導入したのであった。この時代は、電力の一般用での導入はまだかなり先のことであるが、電気は蓄電池などを使って研究は進んでいた。豪州最初の電信線は、ビクトリア植民地政府によるものでメルボルンとウィリアムズタウンの17kmの距離を1853年から1854年にかけて架設された。アイルランド人の電信技士サミュエル・マクゴワン(Samuel McGowan)によるものであった。マクゴワンは、モールス信号の生みの親であるサミュエル・モース(Samuel Morse)教授のもとで勉強して、経験を積んでいた。


 電信線は、1854年3月に操業を開始した。最初の年に4000本の電信文が送信された。同年12月にはメルボルンとジロン間に延長された。ジロンからメルボルンに向けて打電された最初のメッセージは、バララットで起きたユーレカ砦の反乱(前回39号参照)のニュースであった。
。1840年頃、メルボルンシティの西側の台地にあるフラッグスタッフ公園の高台に15mの長大な旗竿塔を立ててメルボルンシティとメルボルン湾に入港する船舶との信号システムとした。旗竿通信は、電信の普及で廃止となった。

 豪州は、人口密度が低く、電信線を敷く条件が悪い中で、世界で電信を早く取り入れ、19世紀の後半には全国に普及した。1858年以降、豪州の主な都市は電信でリンクされ、1877年にはパースまで到達した。1872年には世界と電信で初めて結ばれた。1855年1月にクイーンズクリフまで、7月にはポートメルボルンまで電信線は延長された。メルボルンにとって重要な貿易港であり、本国英国からの輸送船が到着する場所であった。金鉱山の中心地バララットとベンディゴには1856年12月に到達した。1857年にはポートランドなどビクトリアの主要都市には行き渡った。1867年には総延長2697kmが敷設され、12万通のメッセージが配達された。

 南豪州では1854年に導入を計画したが、失敗が続き、1857年4月にサミュエル・マクゴワンに依頼してメルボルンーアデレード間が、電信で結ばれた。タスマニアではホバートとロンセストン間が1857年に結ばれた。NSWでは、1857年にシドニーとリバプール間が結ばれた。メルボルンーシドニー間は、1858年に開通している。クインズランド植民地は、NSWから1859年に分離したが、ブリスベンーシドニー線が開通したのは1861年である。西豪州では、パースとフリーマントルが開通したのは1869年であった。ビクトリアの導入が圧倒的に早かったのがわかる。つまり資金があったということである。

 アデレードからダーウィンまで9200kmを大陸を縦断して電信線が敷設せさた。1959年まで電信は拡張し近代化された。1945年までは電信は非常に使われたが、同年に電話の使用が開始され、電信の領域を侵食しだした。公用での電信の使用は1993年に停止した。

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