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   フィッツロイ Fitzroy 日豪プレス2019年12月号 No41

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八甲田雪中行軍遭難事件

2019年11月24日(日)
バークとウィルスの悲劇の探検隊
Burke and Wills Expedition
シティスクエアCity Square
メルボルン Melbourne 
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1850年代後半になると豪州の沿岸地帯はほとんどが調査され、入植が進んだ。大英帝国でロンドンに次ぐ第二の大都市メルボルンには資金と英知が終結しており、人口の急増により、オーストラリア内部の調査が計画された。大規模な調査隊が組織され、大陸縦断まであと一歩まで到達したが、ほぼ全員が死亡するという未曽有の大失敗に終わった。


撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 1/320 F9.0 ISO感度 100 太陽光 露出補正 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM 2016年1月16日15:47 板屋雅博撮影


1857年に、科学協会ロイヤルソサエティによって探検委員会が設立され、司法長官、財務大臣、植物園部長、地理部長、メルボルン大学学長、メルボルン市長、議会議長、アーガス新聞社編集長などで占められたが、実際に探検を経験した委員はほとんどなかった。
探検隊隊長は、アイルランド生まれで陸軍軍人のロバート・オハラ・バークが指名されたが、探検の経験はまったくなかった。副官にウィリアム・ジョン・ウィルスが調査官、ナビゲーターになったが、バーク隊長の経験の無さが、探検隊が全滅した決定的な要因であった。生きた牛を食料として連れて行く案もあったが、委員会は干し肉を選んだ。大量の食糧を運んだことは、探検隊の移動を遅延させた。

 大陸内陸部の砂漠探検にはラクダが必要であるが、当時の豪州にはわずか6頭が輸入されていた。そこで政府は急きょ24頭のラクダをインドから輸入して、探検隊に引き渡した。その後、ラクダは豪州内陸部で増え続けて現在、数十万頭に増大して、豪州はラクダの輸出国となっている。

探検隊は、1860年8月20日にロイヤルパーク公園を15000名の観客の中を出発した。19名のメンバーは、アイルランド人6名、英国人5名、アフガン人ラクダ使い4名、ドイツ人3名、米国人1名で、馬23頭、ワゴン車6台、ラクダ26頭であった。2年間の探検に備えて膨大な食糧、杉の巨大な食卓椅子やロケット弾、中国製銅鑼など合計20トンの装備品であった。

委員会メンバーのフランシスセデルは船で備品をアデレードまで海路、その後はマレー川で途中まで運ぶ案を出したが、バーク隊長は自分で運ぶ方法を選んだ。ワゴン車1台は、ロイヤルパークを出る前に壊れる始末であった。出発した深夜にはまだメルボルンの一部であるエッセンドンに到着した程度で、そこで更に1台のワゴン車が壊れた。悪い道路事情と雨の為にビクトリアを出るまでの多くの時間を費やしてしまった。

 
離脱者や隊の分割など苦難の末、探検隊は11月11日にクーパークリーク(Cooper Creek )に到着した。バークはここで決定的なミスを犯した。隊を分割して少数で北へ向かったことであった。結局、海までは到達できず内陸5kmの地点で引き返したが、食糧が尽き、更に雨季による豪雨などが重なって探検隊は全滅した。一番若いジョンキング(John King)だけが生き残ってメルボルンへ帰還した。





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豪州初の大陸縦断探検隊は1860年にメルボルンを出発した。しかし数々の不運が重なって探検隊はほぼ全滅して1961年に失敗に終わった。勃興期メルボルンの壮大な計画はどのようなものであったのか。



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