2016年12月27日(水)
メルボルン市の誕生
Town of Melbourne
マーベラスメルボルン Marvellous Melbourne
メルボルン Melbourne
日豪プレス
1842年にニュー・サウス・ウェールズ植民地議会の承認を得てメルボルン町(Town of Melbourne)として正式に成立し、12月には誕生セレモニーを行ったが、メルボルンの人口は5,000人ほど、家屋数はわずか800戸程度で、貧しい丸太小屋やテントが
並ぶ寒村であった。
撮影データ Canon EOS 5D MarkU絞り優先優先AE 評価測光 絞り 10.0 1/125秒 ISO感度100 露出補正 太陽光
JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L /USM 2009年9月5日 10:57 撮影:板屋雅博
最初の市長ヘンリー・コンデルは、ビールの製造業者であった。当時のビールは、英国やタスマニアからの輸入品で大変貴重なものであり、ヘンリーのビールは飛ぶように売れ、彼は財産を作り、市長になった。
メルボルン町は、貧しい寒村といえども市民は生活をかなり楽しんでいた。メルボルン・クリケット・クラブ(MCC)は1838年11月に設立されたが、メルボルンに移民開始後、わずか3年のことである。筆者の想像だが、最初の移民船でビールなどと共に遊具を持ち込んで、休日にはクリケットを楽しんでいただろう。現在、MCCは10万人を超える会員と20万人の入会希望者がいる世界最大のスポーツ・クラブとなっている。
この頃、現在のメルボルンの基礎となる多くの出来事が始まっている。1841年、現在のGPOビルの場所に本格的な郵便局が建設された。
1800年代の欧州から豪州への移動や通信は帆船が唯一の手段であった。名船カティーサーク号に代表される高速帆船の時代であったが、片道4カ月から半年かかり、往復書簡で1年もの長い時間がかかった。
英国から大西洋を南下しアフリカ最南端の英国領南ア・ケープタウンで水食料を積んで、インド洋を真東へ向かうとメルボルンだ。
魔のバス海峡でメルボルン直前に多くの帆船が難破、沈没していった。
南アと豪州の仲が良いのはこの歴史を共有するからである。
豪州の人びとは英国からの郵便船の到着を心待ちにしてい
た。メルボルン湾に外航船が到着すると、市内のフラッグスタッフ公園の旗ざおに旗
が上がり、毎日確認するのがメルボルン市民の日課であった。待ちに待った本国からの郵便物を受け取るのがGPO中央郵便局であり、GPO局長は、メルボルン市長に次ぐ高い地位であった。
1840年には現在のメルボルン・カップが開催されるフレミントンの地で、最初の競馬が実施されている。恒久的な学校はまだなく、インディペンデント教会で子どもたちのための1日学校が始まったのもこの頃。最高裁判所が小さなレンガ造りの建物で建設され、本格的なメルボルン刑務所ができたのも1841年だ。
1847年6月25日付の英国ビクトリア女王の書簡により、メルボルン市(City)の承認を受けた。英国から各種の認可承認を得るためには、まずシドニー植民地政府の許可を取る必要があったが、メルボルンの人びとには我慢ならぬ屈辱であった。植民地として独立が人びとの熱望であった。
1840年
フラッグスタッフ公園 郵便局 GPO
セントフランシス教会 セントミッチェル教会
サウスメルボルン行政区 ブライトン
エルサム リッチモンド ブランズウィック
ノースコット
The Port Phillip Herald新聞 その2
セントキルダ桟橋
マンチェスターユニティ
囚人輸送中止
競馬 カークの馬市場
フェアフィールド
アテナウム劇場
12使徒
1841年
ユダヤ教会 セントアンドリュース
セントポール 税関
税関 ジエイジ紙
セントキルダ号
ウェスターン市場
監獄
羊毛の輸出
1846 アーガス新聞
1847年
イースタンマーケット
1850年
メルボルンMelbourne Gas & Coke Compan
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