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ビクトリア最初の入植地ポートランド 日豪プレス2021年3月号 No50

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ポートランド

2021年1月11日(月) (responsive版)
ビクトリア最初の入植地ポートランド
日豪プレス2021年3月号 No50
ポートランド Portland
グレートオーシャンロード
ビクトリア Victoria
この場所の地図(Googole Map)

ビクトリアで最初の入植は、メルボルンより1年早く南部沿岸、ポートランドに始まった。1830年代に鯨漁港として開設され、40年代から放牧と羊毛業、漁業で繁栄し、現在は観光の町である。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU シャッター速度AE 評価測光 絞りF16.0 1/125秒 ISO感度 100 露出補正-2/3 太陽光 JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM
2011年2月03日18:08 板屋雅博 撮影


ポートランド湾は、英国が派遣した海洋調査帆船レディ・ネルソン号のジェームズ・グラント船長の探検隊が、1800年にバス海峡を初めて航海して、豪州南部海岸線を調査した際に命名された。名前は、英国首相を2度務めたポートランド侯爵に由来する。
シドニーのNSW植民地政府により、ビクトリアへの入植は禁止されていたが、既にタスマニアはほとんど開拓され、ビクトリアは未開拓であったが、捕鯨漁師により十分に調査されており、いつでも移住できる状態にあった。


 32年頃、当時はヴァン・ディーメンズ・ランドと呼ばれていたタスマニアの捕鯨船船長ウィリアム・ダットンは、ポートランドにセミクジラ漁の詰め所を設営し、移民に備えて羊の放牧場を探していた。

24歳のエドワード・ヘンリーは、34日の航海を経て1834年11月19日に、家畜や家財を持ってポートランドに定着して、ビクトリアの最初の住人となった。エドワードは、イングランドから1829年に西豪州に移民して来て、その後、タスマニアに移動していた。メルボルンに定住が開始される11か月前のことであった。

メルボルンに最初の植民隊が到着したのは35年8月30日であり、エドワード・ヘンリー家族のポートランド移民の方が、10カ月ほど早い。
メルボルンやポートランドへの移民は、NSW植民地政府の許可を得ない不法なものであった。


タスマニアの開拓が最終段階に達しており、人々は新たな土地を求めて、ビクトリアを嘱望していた。 いつでも移住できる状態にあった。後は、いつ誰が移民するかという状態にあった。
1832年頃、当時はヴァン・ディーメンズ・ランドと呼ばれていたタスマニアの捕鯨船船長ウィリアム・ダットンは、セミクジラ漁の詰め所を設営し、羊の放牧場を探していた。




 

捕鯨で採れたセミ鯨の油やヒゲはタスマニア経由で英国へ輸出された。鯨のヒゲは長くて柔軟かつ弾力があることから様々な製品の素材に用いられ、高値で売れたために乱獲された。
ポートランド港は、アデレードとメルボルンを結ぶ航路の中では最も水深が深く良港で、荒れるバス海峡の中で安全な避難港でグレートオーシャンロード最大の港として栄えた。



最初のポートランドの公的土地売り出しが1840年にメルボルンで行われた。
タスマニア、ロンセストンから多くの住民が移民してきたが、多数の建材、釘、ペンキや大工などを伴って、タスマニア植民地様式の建築物を作ったが、現在も多くが残っている。

 ポートランドには入植初期の建物などがたくさん残っており、現存するビクトリア最古の住居、小学校、税関、最古の免許を持つパブ、再現されたケーブルトラム、ケープネルソン灯台など観光名所が多く、観光名所のグレートオーシャンロードの終点地として訪問する価値は十分にある。

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