2021年3月6日(土) (responsive版)
マーベラス・メルボルン21年4月号No51
渡し船と黒船 Punts and Paddle Steamer メルボルン Melbourne
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1853年、米国ペリー提督率いる蒸気機関外輪戦艦サスケハナ号を旗艦とする4隻の黒船が江戸湾に現れた頃、メルボルンでは既に蒸気機関式外輪観光船が普及し、ポートメルボルン-ウィリアムズタウン線は特に人気路線であった。
撮影データ Canon EOS 5DMarkU シャッター速度AE 評価測光 絞りF8.0 1/250秒 ISO感度 125 露出補正 太陽光
JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM
2013年1月16日19:03 板屋雅博 撮影
1836年、シドニーのNSW植民地政府はロンズデール行政長官をメルボルンに派遣し、土地の公式売り出しが始まった。メルボルン中央部は直ぐに完売し、リッチモンド、ホーソンなどの周辺サバーブの売出しが始まった。
エチュウカの蒸気外輪船
イースト・メルボルンなどシティ隣接地は、政治家、役人や医者、弁護士などが住み、ヤラ川東南部であるサウスヤラ、プラーンなども人気地区で商人などの富裕層が住んだ。橋が建設される前には、民間の有料渡し船がヤラ川を超える唯一の現実的な手段であった。主な渡し船は現在のプリンセス橋、パントロード橋、ホーソン橋の場所であった。関税や土地売却で収入を得る一方で、資金が掛かる橋の建設にはNSW政府は消極的であり、後のビクトリア独立に繋がった。
ニューポートの渡し舟
ロープをヤラ川の東西に渡した最初の渡し船はプリンセス橋の場所でウィリアム・ワッツによって1838年から、ジェームズ・パルマーの渡し船は、ホーソン橋の場所で1842年から操業した。初期の渡し船は、馬二匹又は小型荷馬車1台を乗せることが出来たが、郵便馬車、荷馬車、個人用馬車などの交通量が増え、大型船が建造された。
ヤラ川では蒸気エンジン付き渡し船が2か所で運営され、スペンサー通り橋の渡し船は、32台の車を乗せる可積載量があり1884年から1920年代まで運営された。ファーストフライ号は、1838年にヤラ川で就航した最初の蒸気式フェリー船でポートメルボルンとニューポートを結んだ。
1839年、ロンズデール行政長官は、メルボルンの西、フッツクレイの町があるソルトウォーター川(現マリビノン川)とヤラ川の合流地点に、渡し船を設置しジーロン、ウィリアムズタウンへの玄関口とした。鉄道路線が拡充される前の時代には、蒸気式フェリー船が活躍し、ヤラ川からウィリアムズタウンまでの路線や、プリンセス橋の場所から上流のクレモーンガーデンズ公園までの路線があった。
橋が設置された後も観光用など多数の渡し船が残り、蒸気機関式の観光渡し船もつい最近まであった。スペンサー通り鉄道駅が開設されるまでの2年間、ニューポートのグリーンウィッチでジーロン行きの列車に接続することが出来た。
1853年、米国ペリー提督率いる蒸気機関外輪戦艦サスケハナ号を旗艦とする4隻の黒船が江戸湾に現れた頃、メルボルンでは既に蒸気機関式外輪観光船が普及し、ポートメルボルン-ウィリアムズタウン線は特に人気路線であった。その後、外輪船はスクリュー船に取って代わられるが、ビクトリア州エチューカには現在も多数の蒸気エンジン式外輪船が観光用として活躍しており、世界最大の蒸気外輪船のフリートとなって人気を集めている。1866年建造のアデレード号は、現在も稼働している木造蒸気エンジン外輪船としては世界で最も古い船である。
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