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メルボルンカップ Melbourne Cup マーベラス・メルボルン21年8月号No55

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Victoria Racing Club

最初のレース

2021年5月20日(日)(responsive版)
マーベラス・メルボルン
メルボルンカップ 
Melbourne Cup
マーベラス・メルボルン21年8月号No55
ビクトリア Victoria
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メルボルンに英国人が定住始めた頃、既にNSW植民地やタスマニア植民地では競馬は、組織化されたスポーツであった。1838年3月、メルボルン都心部の西の端であるスペンサー通りのさらに西側の荒地(現ドックランズ)でメルボルン最初の競馬レースが行われた。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU シャッター速度AE 評価測光 絞りF2.8 1/4000秒 ISO感度 400 露出補正+1/3 オート JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM 2010年11月01日12:06 板屋雅博 撮影


 競馬委員会が組織され、植民地政府総督に土地の無償貸与を要望して、1840年にフレミントンにメルボルンレースコースが恒久的な競馬レースコースが設立された。1842年にポートフィリップターフクラブが設立され、続いて1852年にビクトリア・ターフクラブ、1856年にビクトリア・ジョッキークラブが設立された。1864年には、ビクトリア・レーシングクラブ(Victoria Racing Club :VRC)が設立された。1850年代のゴールドラッシュで蓄積された富裕層は、メルボルンを豪州の競馬中心地に押し上げた。競馬界の充実した財政的な基盤は、賞金総額を押し上げて国家的な競馬大会の開催を可能にした。



 1857年にメルボルンのアリス・ホーソン(Alice Hawthorn )とシドニーのベノは、1000ポンド金貨の賞金で植民地間レースが行われ、大きな反響を呼んだ。ビクトリアアマチュアターフクラブが1876年に設立され、コーフィールド競馬場を解説し、1879年に1879年にコーフィールドカップが創設され春シーズンに最初の重賞レースとなった。
W.S. Cox,は、たくさんのレースコースを開設した。
Kensington Park (1874), Brighton Park and Elsternwick (1882) Moonee Valley in 1883.
Oakleigh Park (1888, renamed Sandown Park in 1892), Mordialloc, Mentone (1888), Epsom (1889), Maribyrnong and Aspendale (1891) and pony tracks at Thornbury (called Fitzroy), Oakleigh (1891) and Ascot (1893).

 当時、豪州の植民地間では、政治、経済、スポーツなどの各方面でほとんど交流が無かった。馬の名誉と大きな賞金をかけた植民地間対抗レースは、オーストラリア人としても意識も高めた。
ベノは、船でメルボルンへ運ばれて、勝利した。同日午後には、ジーロンの馬バン・トロンプ(Van Tromp)にも再び勝利した。1859年には、馬主賞金500ポンドの賞金で、オーストラリアチャンピオンを決める競馬スウィートステイクが作られた。1861年に豪州植民地間レースとしてメルボルンカップが創設された。1861年と続く62年は、シドニーのアーチャー(Archer)が勝利した。
1865年頃には、メルボルンカップ開催日は、役所や銀行などは、半日休日で多くの民間はランチタイムで閉店した。1873年10月31日のビクトリア政府広報でメルボルンカップデーは、休日と定められ、1875年に11月最初の火曜日と定められた。


 1800年代後半、競馬は、ビクトリアの主要産業のひとつであり、レーシングクラブの職員、調教師、騎手、厩舎職員などの雇用が確保された。
競馬は、植民地の賭け事とギャンブルの主要民間事業であった。レーシングクラブは、公認掛け率公開事業者(ブックメーカー)、レース馬オーナーなどから資金を集め、競馬が組織化された。競馬への賭け事は、人気の娯楽となった。賭け事は、合法であったが、法制化されてはいなかった。競馬は、組織化されたスポーツからギャンブルを取り除こうとする団体などの標的とされた。

競馬は、組織化されたスポーツからギャンブルを取り除こうとする団体などの標的とされた。ビクトリア議会で争われた。1870年代、パリムミューテュアル掛け金分配法とトータリゼータ方式がブックメーカーによる独占に穴をあけた。
1960年代にTotalisator Agency Board (TAB) が合法化された。
競馬は唯一の合法的なギャンブルであり、競馬の人気は非常に高かった。

 1871年にビクトリアレースクラブ法が成立し、競走馬の登録、レース日の分配、1912年のオーストラリア競馬規則の制定などでVRCの役割は強化された。州政府もレースの規制に乗り出した。 Sandown Park, Fitzroy (Thornbury), Aspendale and Richmondのレースコースを1931年に閉鎖した。
1900年代になり、オーストラリア連邦政府が成立した後でも、メルボルンカップなどの競馬は、競馬ファンにのみ知られていて、いまほど一般的な人気は無かった。
1920年代、ラジオ放送が開始されて、競馬がブームとなった。競馬アナウンサーは、人気のヒーローとなり、競馬の実況中継を郊外の家庭にまでもドラマをもたらした。Spearfelt, Phar Lap and Peter Panなどが家庭での話題となった。ラジオ中継は、非合法な競馬のみ行為ももらたした。


 1961年に最初のTAB賭け店舗がオープンして、競馬の状況は変化した。競馬のテレビ放送がホテルやTABで放映され、観客の行動は変化した。
1980年代、レーシングクラブは、コース設備の更新し、観客により魅力的な環境を整えた。
第二次大戦後、競馬場はコーフィールド(Caulfield,)、フレミントン(Flemington)、ムーニーバレー(Moonee Valley)に集約された。
1940年代に観客数は最大となった。競馬場へ行くことは、土曜日の午後の楽しみのひとつとなり、スプリングレーシングカーニバルは国中の行事となった。メルボルンカップはニュージーランドの馬を引き継げた。1993年から英国やアイルランドが参加して、国際性を帯びてきた。テレビで海外へも放送され、メルボルンカップが豪州最高のレースとして認識されるようになった。
現代のメルボルンカップは、競馬よりもファッションがもてはやされるが、最初に導入されたのは、1962年である。賭け事の対象として男性ファンが多い分野に女性を取り込む為に企画された事業であり、競馬界が大いに方向を変えた。

ビクトリアターフクラブ(Victorian Turf Club)のメンバーであったフレデリック・スタンディッシュ(Frederick Standish)が最初のメルボルンカップを設定した。1861年11月7日木曜日に最初のメルボルンカップは、17馬が出走した。賞金はそれほど大きくない現金710金貨(710ポンド)と手工芸品の金時計であった。勝者総どりであった。 賞金(総額). は当時の最大のものではなかった。観客数は4000名の男女で期待されたほど多くはなかった。それは、バークとウィルスの悲劇の探検隊のニュースが5日前に届いたので、メルボルン中が悲嘆にくれていたからである。
 


 フレミントンでは過去2年間では2番目の観客数となった。最大は、2000mギネスステークスであった。最初のメルボルンカップの勝者は、シドニーのアーチャーであった。ビクトリアのエース馬モルモン(Mormon)を6馬身の大差で破った。アーチャーは大金をシドニーへ持ち帰った為に、ビクトリアのレース関係者や観客はシドニーに対して、ライバル心を持つようになり、メルボルンカップの名声も更に上がった。翌日もアーチャーは、メルボルンタウンプレートレースで2マイルレースを勝った。アーチャーは、NSWのテララから800kmを歩いてやってきたが、新聞では蒸気汽船シティオブメルボルン(City of Melbourne)で来たと書かれた。

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