シティ案内

今日の一枚へ

サザンクロス駅

豪州鉄道の大混乱  break of gauge

メルボルン百景トップ

  Railway

豪州の鉄道

マウントAlex鉄道 Hobson's 湾鉄道

インディアンパシフィック

rail gauge Australia

colonies of Australia

ゲージ軌間 gauge

蒸気機関車

三線軌条

broad gauge

 standard gauge 

narrow-gauge 

break-of-gauge 

Irish gauge

2021年8月9日(月) responsive版
豪州鉄道の大混乱 
break of gauge
メルボルン Melbourne
この場所の地図 Google Map

1845年英国、ロイヤル委員会が鉄道ゲージ統一に関するレポート作成の為い設置された。1846年に鉄道ゲージ法が制定され、英国、スコットランド、ウェールズで1435mm、アイルランドで1600mmが規定された。1846年に豪州の新聞各社が英国、特に国防におけるゲージ問題の解決策を報じている。

撮影データ Canon EOS 5D MarkⅡ 絞り優先AE 評価測光 1/1250 F7.1 ISO感度 200 太陽光 露出補正 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM
2013年1月15日18:12 板屋雅博撮影

 1847年に南豪州では1435mmを法律で制定した。1848年ロンドンの植民地大臣( Secretary of State for the Colonies)アールグレーは、NSW植民地チャールズ・フィッツロイ(Charles Fitzroy,)に対して、豪州では統一したゲージを採用するように指示を出した。それは英国標準の1435mmであった。NSW、西豪州、南豪州の3植民地で採用された。この時点ではビクトリアとクインズランドはNSWの一部。当時、電信線はなく、英国と豪州の通信は船に頼っていた。一般の船で7か月、快速クリッパー船でも2.5か月がかかった。豪州ゲージ問題に大きくかかわっている。1854年9月12日、豪州最初の鉄道がフリンダース駅ーポートメルボルン間の4kmを走った。蒸気機関車であった。メルボルン最初の鉄道は、1600mmのアイリッシュゲージ(軌間)で建設された。このゲージは、先輩植民地のNSWで採用されようとしたゲージに倣ったものである。

 民間のシドニー鉄道(Sydney Railway Co. )の主任技師は1849年採用のアイルランド人のFrancis Webb Sheildsであった。シールドは、1850年にアイリッシュ規格である1600mmゲージをNSW政府に進言して採用された。ロンドンの植民地大臣アール・グレー(紅茶で有名な)に1851年に採用された。ところがシドニー鉄道が財政上の理由で給料をカットした為に、シールドと同僚3名は退社してしまった。会社は、新たにスコットランド人のJames Wallaceを採用した。ワラスは、

 英国標準ゲージ(1435mm)を主張して採用された。NSW政府は、シドニー鉄道とワラス技師によって説得されて、1435mmのゲージが採用すると通知した。1853年に政府はシドニー鉄道に対して、法による1600mmをゲージを変更すると連絡した。しかしビクトリアは既に蒸気機関車と車両(rolling stock )を英国に発注した後であり、変更は出来ない状態になっていた。このことが、悪名高いゲージ絶縁(break-of-gauge)がこの時に始まった。

 1853年2月、NSWは、ビクトリア、南豪州、西豪州に対して、1435mmゲージを採用するように書簡を送った。ビクトリアでは3鉄道会社に対して、書簡を提示した。1社は1600mmを考えていると返答した。メルボルン・ホブソン湾はふたつのゲージ案を検討するが4月初旬に船便で英国イングランドに発注するので政府の決定を待つと回答した。

 3月末にビクトリア政府は鉄道会社3社に対して、1600mm案を通告し、発注が行われた。同年7月、ビクトリア政府はNSWに対して1600mmの使用を連絡した。後日、ビクトリアは、英国本国に対して、NSWの決定を覆すように要請した。1854年にメルボルン・ホブソン湾鉄道は、豪州最初の鉄道を1600mmで開通した。南豪州鉄道も最初の蒸気機関鉄道を1600mmで1856年に開通した。1855年にロンドンの英国植民地大臣が変更を要請したにも関わらず、NSW総督のウィリアム・デニソン(William Denison)は、シドニー・パラマッタ鉄道に対して、1435mmゲージの採用を許可した、同年9月にオープンした。ゲージの差異に関する関心は直ぐに高まった。1853年9月にビクトリアでゲージ選定委員会(Select Committee)が設置された。
1857年にNSW鉄道のエンジニアジョン・ウィットン(John Whitton)は、当時運用されていた1435mmから1600mmへの変更を推薦し、NSW鉄道運営部も支持したがこの案は採用されなかった。

 当時、敷設された鉄道は、37km、4機関車と客車であった。1889年にはウィットン技師であったが、3500kmの標準ゲージとなった。1865年に1067mmゲージが1865年に豪州に導入された。クインズランド鉄道が最初の鉄道をIpswichからGrandchesterへ開通した。広軌に比べて、コストが安く、速度は早く、厳しいカーブも曲がれると期待されて、狭軌が選ばれた。主要な路線としては世界で最初の狭軌鉄道となった。南豪州では1867年にPort Wakefieldから Hoyletonまで.同じ狭軌を選んだ。これはコストを下げることが主目的であり、広軌の鉄道とつなぐことは考えていなかった。イングランド鉄道は批判にさらされていた。ウェイクフィールド線は、馬引き鉄道トラムの延長であった。後年、狭軌路線は、ブロークンヒル(Broken Hill)とOodnadatta、マウントガンビアまで延長された。


 ポートリンカーン線は、他の路線とは孤立していた。西豪州政府鉄道は、狭軌を1879年に採用し、最初の路線をGeraldtonからNorthamptonまで走った。タスマニア政府鉄道は、最初の鉄道をランセストンからドロラインまで1871年に1600mmゲージを使った。しかし1888年に1067mmゲージに変更した。1880年代まではゲージ断裂は、大きな問題にならなかった。それぞれの植民地で鉄道路線に接続がなく、植民地間移動の需要もなかった。内陸奥地から沿海部の港や都市への鉄道輸送が要求されるようになったが、植民地政府は都市間の旅客や貨物の輸送には関心がなかった。1883年に州境のNSWアルバリー(Albury)でメルボルンからの広軌とシドニーからの標準ゲージが出会った。

 1888年にはブリスベンからの狭軌とシドニーからの標準ゲージがワランガラ(Wallangarra)で出会った。軌間不連続点(break of gauge)が初めて問題となった。連邦が成立する1901年までゲージ統一の利点は直ぐには現れなかった。旅客や商品はともかく植民地境で検査され、税関と入国管理局を通る必要があったからである。連邦国家が成立し、税関や入管は撤廃されるとゲージ問題が明らかになってきた。連邦成立期には、標準ゲージはNSW以外は使っていなかったが使用を推薦されていた。ゲージ転換(gauge conversion )は、豪州憲法51条によって支持されていた。連邦政府が鉄道の取得と建設に関する特定の法律を作る条項があった。南豪州と西豪州の政府の間で合意文書が作られ、ポートオーガスタ(Port Augusta)からカルグリー(Kalgoorlie)までの豪州横断鉄道の建設が1911年に始まり、1917年に完成した。


 しかしながらゲージが異なる為に、クインズランドからパースまでの間に、材料を運ぶためには、4回の積みなおしが必要であった。1921年に鉄道ゲージに関するロイヤル委員会が開かれて、国の大部分でゲージの転換が推奨された。1435mmが豪州標準と定められた。機械や第三レールや他の器具を使う方式は認められず、1435mm以外のゲージを使うことは認められなかった。ロイヤル委員会に続いて、NSWコースト線で標準ゲージが採用され、Kyogleから南ブリスベンへ1930年まで、更に豪州横断鉄道がポートオーガスタからポートピリーへ1937年に延長された。第二次大戦の勃発で、13箇所のゲージの断裂があった。戦争当時、1600名の鉄道作業員と更に多くの市民が1.8万トンの貨物の積み替えに雇用された。

 ゲージ断裂の解決の為に、1922年には、273件の発明が提案されたが全部、否決された。1933年には140の器具が発明家によって開発されたが、どれも不採用であった。標準ゲージとアイルランドゲージをつなぐ第三のレールを持つ並列ゲージ案も出たが、危険すぎると否決された。ゲージ差は、165mmしかないので第三のレールには狭すぎた。アイルランドゲージと狭軌では530mmがありこれは広すぎた。各州によって事情がまったく異なりコストも莫大になることも問題であった。1956年、ウィリアム・ウェントワース議員委員長の連邦政府鉄道標準化委員会が組織された。大規模なゲージ転換に関しては慎重な意見が多かったが、主要路線の転換作業が大きく遅れていることは疑いようがなかった。委員会と政府は41.5百万ポンドをつぎ込んで標準化プロジェクトを強く推進した。


 優先順位1位:メルボルンーアルバリー
2位:ブロークンヒルーアデレード・ポートピーリー
3位:カルグーリーーパース、フリーマントル
連邦、NSW、ビクトリアは、1962年1月、メルボルンへの北東線(North East line)貨物列車から開始した。最初の遠しの最初の旅客列車は、1962年4月であった。西豪州での転換作業は、1960年11月に州政府とBHPとの間でKoolyanobbingからクナナ(Kwinana)の新しい製鉄所までの標準ゲージでの輸送に関する協定書が結ばれてから始まった。新しい三線軌条(dual gauge)がAvon Valleyを通って MidlandからNorthamまでを1:200の勾配で敷設された。通常は1:40である。最初の小麦の列車は、Merredinからフリーマントルまで1966年11月に走った。1967年4月にカルグーリー(Kalgoolie)からパースまで31時間から13時間に減少した。

 南豪州ではポートピーリーからブロークンヒル間は、1963年に建設が始まった。グラッドストン(Gladstone)からピーターボロー(Peterborough)までの狭軌ゲージ線が転換できてなく、3階建て軌道(triple gauge:3種の軌間に対応するケース)が採用された。アデレードへの路線は、標準ゲージは採用されなかった。CockburnからBroken Hillへは新しい鉄道線が建設されたが、新しい技術が用いられ、民間のシルバートン・トラム路線は使用されなかった。この路線の接続完了により、1970年3月にシドニーからパースまで最初の大陸横断鉄道であるインディアンパシフィック路線が完成した。

フレーザー政権 アデレードへの標準ゲージ建設工事は1982年にレッドヒル(Red Hil)への広軌からの転換から始まった。

 キーティング政権のひとつの国家プロジェクト(One Nation project)によりメルボルンーアデレード鉄道線が標準ゲージに1995年に再建された。ビクトリアのホープタウン(Hopetoun)、ポートランド( Portland)、ヤーピート(Yaapeet)路線と南豪州のピナロー(Pinnaroo)、ロックストン( Loxton、Apamurra線は、標準ゲージに転換された。残存するマウントガンビア(Mount Gambier)やマウントバーカー(Mount Barker)の単独線や孤立線の狭軌、広軌鉄道は廃止された。


 東西線(East-west rail corridor)の残存狭軌線路が1966年に標準ゲージに転換され、NSW鉄道省(Department of Railways New South Wales)、南豪州鉄道( South Australian Railways)、西豪州鉄道(Western Australian Government Railways)、連邦政府鉄道(Commonwealth Railways )は、シドニーセントラル駅(Sydney Central t)からイーストパース駅(East Perth Terminal)までの旅客鉄道輸送を合意した。最初の名前は、大陸横断鉄道(The Transcontinental)であったが、1969年の各運輸大臣の会合で、インディアン・パシフィック鉄道が採用された。

 2001年5月ビクトリア州は2000km規模のゲージ転換を発表したがヴィクトリア貨物鉄道会社(Freight Australia.)との協定が進まずに進展していない。2010年にノースイースト線の200kmのセイモア(Seymour)ーアルバリー間が標準ゲージに転換された。同年にポートジーロンまでが転換されたが、メルボルンーアデレード線の標準化後、13年後である。西部標準ゲージ線はジーロンの直ぐ北を走っている。


このページのトップへ

inserted by FC2 system