シティ案内

今日の一枚へ

マーベラスメルボルン

ロイヤルボタニック植物園 Royal Botanic Garden 10月24日

メルボルン百景トップ

ロイヤルボタニックガーデン

フィッツロイガーデン

クック船長生家 08年冬

James Cook 日本語

Joseph Banks 日語

 Daniel Solander

Royal Botanic Gardens, Kew 

Kew Gardens. キューガーデ

Sydney Botanic Garden

   Melbourne Botanic Garden

King George III

ジョージ3世

2021年8月9日(月) responsive版
ロイヤルボタニック植物園 
Royal Botanic Garden
メルボルン Melbourne
この場所の地図 Google Map



撮影データ Canon EOS 5D MarkⅡ 絞り優先AE 評価測光 1/1250 F7.1 ISO感度 200 太陽光 露出補正 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM
2013年1月15日18:12 板屋雅博撮影

植物園 ロイヤルボタニックガーデン 

 1768年5月25日、英国海軍本部(Admiralty)は、クック船長に太平洋への科学的航海を任命した。航海の第一の目的は、1769年に太陽表面を金星が通過するのを観測し、記録することであった。英国など他の地域で同時に観測することにより地球から太陽への距離を測定することであった。クック船長は、39歳であり、大尉(lieutenant)に昇進して、船長の指揮権を得た。海軍からの給料に加えて、ロイヤルソサエティは、100ギネアを貸与した。HMSエンデバー号は、1768年8月26日にイングランドを出航した。クック船長とエンデバー号は、ホーン岬へ到達し、西へ太平洋へと向かった。タヒチには1769年4月13日に到着した。そこで金星を観察したが、期待したように正確には観察できなかった。


 天体観測が終わった後で、クック船長は海軍省から、封印した指示書をオープンした。そこには、航海の第二の目的が書かれていた。
南太平洋を調査して、伝説の大陸、テラオーストラリスを探査することが指示されていた。17世紀にアベルタスマン船長によって発見されていたニュージーランドへ向かい、沿岸部のほぼ完全な地図を作成した。タヒチ人の神父ツパイアのたすけを得てクック船長はマオリ族と交流した初めての西欧人となった。更に航海を続け、1770年4月19日に豪州南西海岸に到達した。豪州東海岸に到達した記録が残された西欧人の最初の調査となった。



 4月23日には Bawley Point,の近くのブラッシュ島(Brush Island)で豪州原住民を観察した最初の記録となった。4月29日にKurnell Peninsula.に最初の豪州大陸に上陸をした。クックはこの地区を最初、Stingray Bayと名付けたが、その後、ジョセフ・バンクス(Joseph Banks)とダニエル・ソランダ(Daniel Solander)が発見した貴重な植物種類にちなんでBotany Bay(植物学湾)と訂正した。


 大英帝国のジョージ三世国王は、植物学者で貴族のジョセフ・バンクスに命じて、世界中から植物を集めさせた。集まった植物は、王立キューガーデン植物園に集めて、品種改良を行った。英国の他の植物園や英国花卉教会、ロイヤルソサエティ(王立科学協会))とネットワークを組んで組織的に植物を収集していた。英国は世界中に有する生育条件が見合う植民地のプランテーションに植物種子、種苗を送り込んで、大量生産を図った。中国産の茶をインドのダージリン地方やスリランカへ、アマゾン川流域産の天然ゴムをマレー半島へ、ポリネシア産のパンノキを西インド諸島へ、マラリアの特効薬キニーネ(キナの樹皮)をペルーからインドへなどであった。


 イギリスの帝国主義の拡大に、ゴムやキニーネが果たした戦略的な役割と残した利益は計り知れない。18世紀イギリスの科学・技術一般についていえるように、政治が専門ではなかったキュー植物園のジョセフ・バンクスが事実上の科学政策の立案者となっていたというのは当時のイギリス社会の民間のレベルの高さ、地力を示しているという。

 【キューガーデン:大英帝国植物政策の司令塔】-西欧の生態資源支配の最終形態-19世紀以前、生物由来の資源は現在とは比較にならない重要性を持っていました。殊に植物は、食糧や衣類に留まらず、船舶や建物の資材、薬品など幅広い用途があったのです。
そんな時代に大英帝国の制度化された植物政策の司令塔として機能し、帝国各地に設置された多数の植物園と緊密なネットワークを形成、国外の戦略的植物を収集し、帝国内に定着させることに成功したキュー植物園。
パクス・ブリタニカを支えた知られざる国家機関の全貌を素描します。


 そして18世紀末から20世紀初頭まで、大英帝国の制度化された植物政策の司令塔として機能。帝国各地に設置された多数の植物園と緊密なネットワークを形成し、国外の戦略的植物を収集し、帝国内に定着させることに成功しました。
そのなかには、茶樹、キナの木、マホガニー、ゴムの木などがあります。

植民地大臣ジョセフ・チェンバレン(任期1895-1903)はこう述べています。
「今日、重要な植民地における繁栄は、キューガーデンの権威と援助によって実現した、知識と経験によるものと言って差し支えない」
前置きが長くなりましたが、今回は大英帝国の覇権を陰で支えたキュー植物園のお話です。 まずは、同植物園設立までの近世西欧の生態資源支配について概観しておきましょう。かの「コロンブス交換」は、他ならぬクリストファー・コロンブス自身が先鞭をつけました。1492年の航海では、カリブ海の島嶼でトウモロコシ、サツマイモ、トウガラシ、カボチャ、タバコなどを入手しています。

 メルボルン・ロイヤル植物園は、ビクトリア植民地チャールズ・ラトローブ初代総督が1846年にヤラ川のそば南側に38ヘクタールの植物園用地を確保したことに始まる。1816年設立の豪州の最も早く設立された科学機関の中であるシドニーロイヤル植物園に遅れること30年であった。
世界で最も古く歴史的に重要な植物園のひとつであり、ロンドンのキウロイヤル植物園で長く勤務したアラン・カニンガムとリチャード兄弟がシドニーロイヤル植物園の監修を行った。


The overall structure and key elements were designed by Charles Moore and Joseph Maiden, and various other elements designed and built under the supervision of Allan Cunningham, Richard Cunningham, and Carrick Chambers. The garden is owned by the Government of New South Wales and administered by the Royal Botanic Gardens and Domain Trust. The Botanic Garden, together with the adjacent Domain were added to the New South Wales State Heritage Register on 2 April 1999.[2]

 

 

 

 

 


 

 

このページのトップへ

inserted by FC2 system