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マーベラスメルボルン

日豪プレス1月号 第6回 ビクトリア植民地成立

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2017年3月16日(木)
ビクトリア植民地成立
マーベラスメルボルン marvellous Melbourne
メルボルン Melbourne
日豪プレス 

タスマニアから移民が増加してメルボルンも町から都市の体を成してきた。近代的な都市となるためにはどうしても必要な事があった。NSW植民地から独立してビクトリア植民地が成立することであった。

撮影データ Canon EOS 40D 絞り優先優先AE 評価測光 絞り 9.0 1/200秒 ISO感度100 露出補正 太陽光 JPG レンズ EF-S17-85mm f/4-5.6 IS USM 2008年5月26日 12:42
撮影:板屋雅博

ビショップコート(1949-1953)

 1840年代後半のメルボルンは、人口が2万人を超して都市機能が充実してきた。
英国人の為に、英国国教会(アングリカン)のセントジェームズ教会やセントポール教会が設立され、アイルランド人の為にセントフランシス教会やセントパトリック教会などのカトリック教会も多く建設された。ユダヤ人の為にはユダヤ教会シナゴーグも設立された。
市内東側の高台スプリング通りに政府役所が集められ、その東側(イーストメルボルン)の徒歩圏内が政府役人の居住区となった。
スプリング通りに交差するコリンズ通りには、医者や弁護士がオフィスを構えてパリスエンドと云われる高級ビジネス街を形成した。
メルボルンロイヤル病院の前身メルボルン病院は、最高医療施設として1848年にスワンストン通りとロンズデール通りの交差点に2階建10ベッドで建てられ、貧しい人々の為の慈善病院として寄付金で運営された。

ジョブズウェアハウス (1848-1849)

  ビクトリア競馬クラブが設立されメルボルンカップの前身の競馬もこの頃に始まった。
メルボルン発祥の地であるヤラ川河畔のマーケット通りにウェスタンマーケットと東側高台バーク通りにイースタンマーケットのふたつの市場も設けられたが、その後クイーンビクトリアマーケットに吸収された。 



別れの木 The Separation Tree

  1849年にメルボルン最初の石炭ガス灯がスワンストン通りに点灯された。お菓子屋であったウィリアム・オバートンがフィッツロイの鍛冶屋ジョージ・サウスに頼んで石炭ガス化設備を作らせたものであった。この成功により翌年植民地政府がメルボルン市ガス&コーク会社が設立している。
ヤラバレーに植民者が入ってワイナリーを作り始めたのもこの頃で、ワインは植民地開拓に欠かせないものであった。
植民地建設のさまざまな許認可を英国政府から取る際、全ての事務手続きをシドニーのNSW植民地政府を経由する必要あったが、メルボルン市民は非常にも苛立ちを感じていた。

セントジェームズ教会(1842年)

  1850年11月ロンドン大英帝国議会の承認により、ビクトリアがNSW植民地から分離して、新しく植民地として独立するというニュースが船でメルボルンに届いた。
分離運動に尽力したチャールズ・ラトローブがビクトリア植民地初代総督に就任した。
23,000名ほどのメルボルン市民の喜びは大きく、4日連続で祭日となり、かがり火が夜通し焚かれた。市民は、全ての仕事を放棄して、当時出来たばかりの初代プリンセス橋を渡ってヤラ川沿いのボタニカルガーデン公園に集まった。同公園にはビクトリア植民地成立を記念した分離の木が現在も植えてある

セントピータース教会 St Peter's Eastern Hill

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