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マーベラスメルボルン

日豪プレス3月号 第8回 移民の急増 increasing of immigrant

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2017年3月28日(火)
移民の激増 increasing of immigrant
マーベラスメルボルン marvellous Melbourne
メルボルン Melbourne
日豪プレス 

ゴールドラッシュ開始翌年になると、一攫千金を夢見る金鉱夫や家族が、欧米や中国アジアなどから大量にメルボルンに押し寄せた。1851年のメルボルンの人口は3万人弱であったが、1853年には13万人に達し、ビクトリア全体ではその3倍の40万人に達した。


撮影データ Canon EOS 5D MarkU絞り優先優先AE 評価測光 絞り 10.0 1/125秒 ISO感度100 露出補正 太陽光 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L /USM 2009年9月5日 10:57
撮影:板屋雅博


 静かな植民地であったのが、突然、人口だけはロンドンに次ぐ大都市並みとなった。
メルボルンの南のサンドリッジ海岸には毎日、数隻の帆船が到着しホブソン湾には多くの船が滞船した。当時の帆船の乗員は100名ほどであるので、年間10万人を輸送するには毎日3隻から多い日には10隻もが到来した。当時のメルボルンには外洋帆船用桟橋や岸壁もない為、小舟で荷降ろしが行われ、転覆する船も出るなど大混乱となった。
サンドリッジ海岸からメルボルン市内までは荷物を持った移民たちがぞろぞろと歩いて行った。通路であるエメラルドヒル(現サウスメルボルン)には移民たちのテントハウスが立ち並んだ。チャイナタウンが成立したのもこの頃で、金鉱夫としてやってきた中国人の旅籠や中華料理店として、また金鉱山で使用する物資を販売する商店として活況を呈した。


 



 多数の移民たちに対して宿や病院、医者、薬の数も圧倒的に少なく多くの病人は手当てもされずに死んでいった。多くのホテルの1階が臨時の死体置き場に指定され、フリンダース駅のたもとのヤラ川にはモルグが設けられた。
植民地政府もこの状況を打開にかかった。サンドリッジ海岸には豪州初の本格的外航船用の桟橋、ステーションピア桟橋が1854年に建設された。それから100年以上の間、世界中からの移民を受け入れ、豪州最大の移民受け入れの記録を持っている。世界でもこのような桟橋は例がない。


 増え続ける移民をメルボルン市内へ輸送するためにホブソン湾鉄道会社が設立され、豪州最初の鉄道路線がテルミナス駅(現フリンダース駅)とサンドリッジ港駅(現ポートメルボルン駅)を結んで1854年に開設された。
最新鋭の蒸気機関車をロンドンに発注したが、1年ほど遅れた為に、最初の数列車は、メルボルンで製造されたものであった。
翌年4台の蒸気機関車が到着し『メルボルン』、『サンドリッジ』、『ビクトリア』、『ヤラ』と名付けられた。30分毎に出発して両駅間を10分で結んだ。テルミナス駅に到達するにはヤラ川を越える必要があり、難工事の末にサンドリッジ橋が架橋された。サンドリッジ橋は、現在では歩行者用の観光橋となっているが、そこには世界中からメルボルンへやってきた移民の歴史を記念するモニュメントが設置されている。

 
世界史上でも稀な規模のゴールドラッシュと急増する移民が、その後に起こるマーベラスメルボルンのふたつの要因であった。

 
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