7月のメルボルン

日豪関係 Relationship Japan Australia

メルボルンの四季トップ

2009年7月19日(日)
日豪関係 Relationship Japan Australia
お茶会 Tea Ceremony
裏千家メルボルン協会
ビクトリア州立美術館 
National Gallery of Victoria NGV
メルボルン Melbourne
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今日のメルボルンは快晴のすばらしい日曜日であった。7月に入ってからは最初の快晴の週末となり各地で多くの行楽客が見られた。

昨年の今日 2008年7月19日(レストランバーTerra Rossa

Canon EOS 5D プログラムAE シャッター速度1/60秒  絞りF4.0 スポット測光  ISO感度 3200 AWB 画質圧縮率 sRAW2  レンズ EF24-74 f/2.8L USM

 メルボルンは、世界の100カ国以上からの移民で成り立っている。
英国、ギリシャ、イタリア、中国などが多く、南ヨーロッパ、東ヨーロッパ、インド、東南アジア、中近東、アフリカなどが続く。
日本の移民数は10,000人ほどで決して、多い方ではない。
むしろ人数的には少数派である。
ただし日本の存在感は、メルボルンやオーストラリアの中では、移民数とは関係なく非常に大きい。
オーストラリアにとって日本は、輸出相手としては中国に続いて2番目。
輸入国としては中国、アメリカに続いて3番目。
オーストラリアは、対日黒字を記録している。大量の原料を日本へ輸出し、大量の製品を日本から輸入している。

右は、裏千家シドニー協会松永会長。

 オーストラリアへの最初の日本人は、1870年代にクインズランドに移民している。
主に農園の作業員などで、1901年のオーストラリア連邦成立時には、4000名ほどに増えている。クインズランドのタウンズビルには日本政府の領事館が1896年に開設されている。1902年に悪名高き白豪主義法が成立し、そのため領事館は1908年に閉鎖された。
その後も日豪関係は拡大し、1930年代には日本は、オーストラリアの輸出相手として英国に次いで2番目になっている。
このころオーストラリアは、日本に単独で大使館を設置したが、これは米国に続いて2番目のことで、既に日本は、経済、政治上で非常に重要であったことを示している。

 第二次世界大戦中は、オーストラリア軍の中央司令部(大本営)は、メルボルンのセントキルダ通りにあるバラックスに置かれた。またこのため戦時臨時内閣もキャンベラからメルボルンに移動している。

戦後、米英豪連合軍は、日本の各地に駐留軍を派遣した。
オーストラリア軍は、広島県の呉一帯に1946年から1952年の6年間、駐留した。
オーストラリア軍は、ビクトリア州の兵隊を主力とする第34歩兵旅団を中心として海軍、空軍やスピットファイア戦闘機なども駐留していた。
若い豪州軍兵士は、日本で結婚相手を見つけた為、ビクトリア州には広島県出身のいわゆる戦争花嫁がたくさん在住している。

 現在、日本とオーストラリアの関係は、捕鯨問題などを除くと、非常に良好と云える。
オーストラリアの最大の輸出入相手は、中国へと移った。中国は共産党独裁政権であり、経済的な重要性とは別に、オーストラリアに取っては当分の間、安全保障上の懸念が晴れない。
オーストラリアの立場としては、英国、米国に続いて日本との関係を最重要視している。

経済面に限らず文化面を強化することが日本とオーストラリアの関係を強化するために重要だ。

裏千家や日本人関係者の努力によって、日本ファンのオーストラリア人は確実に増えている。


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