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セントキルダ通り

アートセンター

アートセンター The Art Center

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2017年8月6日(日)
アートセンター The Art Center
セントキルダ通り St Kilda Street
メルボルン Melbourne 
この場所の地図 Google Map(航空写真)

アートセンターの場所は、長く芸術とエンターテイメントの開催地であり、サーカス、劇場、ローラースケート、アイススケート、映画、ダンスなどの臨時演芸場であった。現在の建物の屋根部分の形に似ているが、かつてゴールドラッシュ期などメルボルンの初期の時代には、この地域は、キャンバスタウン(テントシティ)と呼ばれた。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU 絞り優先AE 評価測光 絞りF8.0 1/250秒 ISO感度 100 露出補正 オート JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM
2017年1月21日 板屋雅博 撮影


 第二次大戦後、ビクトリア州政府はメルボルンには文化センターが必要であると決議した。十数年の議論の後で、建築家サーロイ・グラウンズ( Sir Roy Grounds)を主任設計者とするマスタープランが1960年に認可された。その後、マスタープランに変更が加えられて劇場ビル(Theatres Building)とハマーホール(Hamer Hall.)が建設された。ケネスマイヤー(Kenneth Myer)を委員長とする建設委員会が組織され、完成までの25年間も継続された。俳優で映画監督のジョージ・フェアファックス(George Fairfax)が1972年に委員会に加わり、最初の建設委員部長に選任され、アートセンターの開発に影響力を持った。劇場の建設が1973年に始まり、1978年に完成した。コンサートホールの建設は1976年に始まった。

 1972年から1979年までの第一フェーズの間、総責任者は、州首相兼芸術大臣であったルパート・ハマー(Rupert Hamer)であった。1979年から1982年の建設期は、ノーマン・レイシー(Norman Lacy)が芸術大臣であった。芸術賞受賞のセットデザイナーであるジョン・トラスコット(John Truscott)は、内部装飾専門家として採用された。コンサートホールのインテリアなど既に完成している部分に関しては除く契約であったが、トラスコットは、詳細な装飾を施した。州立劇場には鋼鉄製メッシュ構造の湾曲天井や真鍮製ボールなを制作した。

 アートセンターの建設には長い年数と膨大な予算を消費したために、議会で紛糾し、ノーマンレイシー州首相は、在任中、幾度となく議会でアートセンター財団の防御に努めた。音響効果、尖塔のデザイン、コンサートホールのインテリアの変更、BASSチケットシステム、建設の遅れ、建設コストの増大など問題は噴出した。ノーマンレイシー首相主導により議会にて1979年にビクトリアアートセンター法が成立し、経営陣や管理部門が作られた。組織委員会が設置され経営とプログラムの責任体制が出来た。ビクトリア・アートセンター、州立劇場、ハマーホール、シドニーマイヤー野外音楽堂などが傘下に入った。財団設立法が成立後、レイシー首相とフェアファックス部長は、欧米へ視察へ出かけ、先進国の芸術施設の管理、教育、市民啓発などをロサンジェルス、サンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントン、トロント、オタワ、ロンドン、パリで調査した。

 コンサートホールは、1982年にオープンした。アートセンター全体としては1984年までに段階的にオープンした。最初の企画から25年をかけたビクトリア州では最大規模の一大公共プロジェクトであった。劇場とコンサートホールの大部分が地下に作られている点でユニークな構造となっている。
ハマーホールはヤラ川の側に立地している。当初はフリンダース駅から劇場と尖塔への見通しを良くするため、大半を地下に埋め込む予定であったが、川からの浸水や基礎構造などの問題が出た為に3階建てとなった。同様に予算制限のため、劇場のグランドデザインにも影響を与え、尖塔は銅で覆う予定であったが、結局、現在の被覆なしの尖塔になっている。

Wikipedia 

アートセンター公式Web

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