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バークとウィルスの悲劇の探検旅行

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2007年6月15日(金)
バークとウィルスの悲劇の探検旅行
Burke and Wills Expedition
シティスクエアCity Square
Swanston Street とCollins Streetの角
メルボルン Melbourne
バークとウィルスの探検経路

この場所の地図Google Map

メルボルンの目抜き通りに立派な銅像があります。この二人はRobert O'Hara BurkeとWilliam John Willsです。1860年にメルボルンからオーストラリア大陸の北の海岸までの約2800KMを17名の同行者と共に内陸部を通って到達しようという冒険旅行です。
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昨年の今日 2006年6月15日


バークとウィルスの悲劇の探検旅行
Burke and Wills Expedition
海岸線は、英国の帆船により綿密な調査が実施されており正確な地図も出来上がっていました。しかし内陸部は、西欧人にとってはほとんどわかっておらず未開の土地だったのです。南から北への探検は、無事に終わりましたが。北から南への帰り道で悲劇が起こりました。1851年に始ったゴールドラッシュは、メルボルンに大繁栄をもたらし驚異のメルボルン(Marvellous Melbourne)という繁栄の時代が幕開けました。1855年にメルボルン大学、1856年には州立図書館が開設され文化的にもメルボルンは世界でトップクラスの環境が整いました。1854年にはビクトリア州文化協会(Philosophical Institute of Victoria)が設立され、同協会は、1857年に探検委員会を設置しました。

 資金集めには苦労しましたが、豪州大陸の内陸部を調査するという意欲が高まりました。豪州大陸内部探検に必要な移動手段の確保のために、メンバーの一員James Landells がインドへ出向き、ラクダを購入しました。探検委員会は、Robert O'Hara Burkeを探検隊長に選び、James Landells をラクダ係り第一副官、とWilliam John Willsを第二副官として選定しました。バークは、アイルランド人で、豪州陸軍の軍人で、後に警察の指導官でした。ウィルスは地理調査官で気象学者でした。共に探検の経験はありませんでした。1860年8月20日、15000人の観客に見送られて一行19名は、メルボルンロイヤルパークを出発しました。馬23頭、ラクダ49頭、幌馬車6台、2年分の食料など全部で20トンにのぼる重装備です。ところがあまりの重さにメルボルンの郊外へ出るまでに3台の荷馬車が壊れる事態となりました。

Coopers Creekがそれまで西欧の探検隊の到達点でしたが、ここでバーク隊長は、ベースキャンプ(デポ)隊とアタック隊4名に部隊を分けます。デポ隊には、3ヶ月間、デポで待つように指示を出しています。アタック隊は、1860年12月16日にデポを出発し、1861年2月9日になんとか豪州の北部海岸(Gulf of Carpentaria)へ到達し、直ぐに引き換えすことになりましたが、この時点でアタック隊の食料があと数週間分しかありませんでした。帰りの道すがら残っていた馬、ラクダを食料として次々に消費していきました。また装備も同時に廃棄していきました。アタック隊は、4月21日夕方にデポに到着します。ところがなんと同じ日の午前中にデポ隊は、メルボルンに帰還してしまっていたのです。その後、最後のラクダも死んでしまいCoopers Creekから移動することもできなくなりました。

 メルボルン探検委員会、南豪州、クイーンズランドもいくつもの救援隊を現地へ派遣しました。しかし救援隊の到着前に、William John WillsそしてRobert O'Hara Burkeと次々と亡くなっていきました。1861年9月15日に救援隊が到着した際には、アタック隊最後のひとりであるJohn Kingを発見しました。救援隊の派遣や、悲劇の結末は、豪州中の民衆におおきな反響をもたらすと同時に、豪州内陸部への関心を高めました。

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