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バークとウィルスの悲劇の探検隊 Burke and Wills Expedition

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2016年7月24日(日)
バークとウィルスの悲劇の探検隊
Burke and Wills Expedition
シティスクエアCity Square
メルボルン Melbourne 
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豪州初の大陸縦断探検隊は1860年にメルボルンを出発した。しかし数々の不運が重なって探検隊はほぼ全滅して1961年に失敗に終わった。勃興期メルボルンの壮大な計画はどのようなものであったのか。

撮影データ Canon EOS 5D MarkU 絞り優先AE 評価測光 1/320 F9.0 ISO感度 100 太陽光 露出補正 JPG レンズ EF 24-70mm f/2.8L USM 2016年1月16日15:47 板屋雅博撮影


1851年に始まったゴールドラッシュによりビクトリア植民地の人口は29,000人から1861年には139,916人へと膨れ上がり、シドニーの93,636人を上回り豪州第一の都市になるとともにロンドンに次ぐ大英帝国第二の都市となった。1851年にビクトリア植民地政府が独立し、1854年にロイヤルソサエティ、1855年にメルボルン大学、1856年に公立図書館と知的面も充実された。人口の急増に伴い豪州内部の調査が必要とされ、ロイヤルソサエティによって探検隊を送ることが決定された。1857年に探検委員会が設立されメルボルンを運営する重鎮で占められたが、実際に探検を経験した委員はほとんどなかった。
委員会メンバー:司法長官、財務大臣、政府植物園部長、政府地理部長、メルボルン大学学長、メルボルン市長、議会議長、アーガス新聞社編集長

探検隊隊長は、アイルランド生まれで陸軍軍人のロバート・オハラ・バーク(Robert O'Hara Burke)が指名されたが、探検の経験はまったくなかった。サポート役にウィリアム・ジョン・ウィルス(William John Wills)が調査官、ナビゲーターになったが、バーク隊長の経験の無さが、探検隊が全滅した決定的な要因であった。生きた牛を食料として連れて行く案もあったが、委員会は干し肉を選んだ。大量の食糧を運んだことは、探検隊の移動を遅延させこれも全滅の要因となった。

砂漠探検にはラクダが必要であるが、当時の豪州にはわずか6頭が輸入されていた。そこで政府は急きょ24頭のラクダをインドから輸入して、探検隊に引き渡した。その後、ラクダは豪州内陸部で増え続けて現在、数十万頭に増大して、豪州はラクダの輸出国となっている。

探検隊は、1860年8月20日午後4時にロイヤルパーク公園を15000名の観客の中を出発した。19名のメンバーは、アイルランド人6名、英国人5名、アフガン人ラクダ使い4名、ドイツ人3名、米国人1名で、馬23頭、ワゴン車6台、ラクダ26頭であった。2年間の探検に備えて膨大な食糧、杉の巨大な食卓椅子やロケット弾、中国製銅鑼など合計20トンの装備品であった。委員会メンバーのフランシスセデルは船で備品をアデレードまで海路、その後はマレー川で途中まで運ぶ案を出したが、バーク隊長は自分で運ぶ方法を選んだ。ワゴン車1台は、ロイヤルパークを出る前に壊れる始末であった。出発した深夜にはまだメルボルンの一部であるエッセンドンに到着した程度で、そこで更に1台のワゴン車が壊れた。悪い道路事情と雨の為にビクトリアを出るまでの多くの時間を費やしてしまった。


  離脱者や隊の分割など苦難の末、探検隊は11月11日にクーパークリーク(Cooper Creek )に到着した。バークはここで決定的なミスを犯した。隊を分割して少数で北へ向かったことであった。結局、海までは到達できず内陸5kmの地点で引き返したが、食糧が尽き、更に雨季による豪雨などが重なって探検隊は全滅した。一番若いジョンキング(John King)だけが生き残ってメルボルンへ帰還した。


Burke and Wills バーク&ウィルス協会

豪州探検家列伝  eMelbourne

wikipedia   伝記集

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