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フェデレーションスクエア

ロレアル メルボルン ファッション フェスティバル

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2007年3月7日(水) 午後5時10分(今日の一枚へ戻る
ロレアル メルボルン ファッション フェスティバル
フェデレーションスクエア
Melway 1B−N10
メルボルン Melbourne

今日のメルボルンの天候は、晴れ。
最高気温26度、最低17度と快適な一日です。

3月から4月にかけてメルボルンでは、いろんなイベントがいくつも並行して実施されています。現在、F1グランプリ、FINAワールドカップ水泳、そしてファッションフェスティバルの各種のイベントがシティのあちこちで開催されています。この時期のメルボルンからは目を離せません。観客席でもまったくの無料です。主催メルボルン市です。

 ロレアル メルボルン ファッション フェスティバル L’OREAL MELBOURNE FASHION FESTIVAL 3月4日から3月10日まで 
公式Web
That's Melbourne
メイン会場は、カールトンガーデン(Melway 2B−J10)です。

メルボルンは、ファッションの街としても名高く、世界の水準からは一歩遅れた豪州のファッション界をリードしています。メルボルンやジーロン(Geelong)の最初の輸出産業は、羊毛です。現在でも羊毛の生産量は、世界第一位である25%を誇っています。アジアからの大量の衣料品が入ってくるまではシティ内外で衣料品の生産を行っていました。代表的な場所としてはフリンダースレーン(Flinders Lane)とリッチモンド(Richmond)のブリッジ通り(Bridge Street)地区です。いまでもその地区がメルボルンのファッション界をリードしています。

ロレアルは、有名なフランスのファッション企業です。
1770年にキャプテンクックは、現在のNSW州からクイーンズランドにかけての豪州東海岸地域を探検しています。その報告を基に1788年に最初の囚人と監視の兵士による最初の移民団がシドニーに到着しました。この当時、フランスと英国は、世界を植民地として分割するために激しい競争をしていました。フランスの探検隊も英国の移民団とまったく同じ月に、シドニーに現れています。英国は、すぐさま豪州の各地に植民地の建設に取り掛かりました。18世紀中旬のフランスは、ルイ14世の治世の時にヨーロッパ最強の国となりました。当時、独立戦争を行っていた米国を助けて英国と戦い、1776年にヨークタウンの戦いで勝利を収めて米国の独立を決定ずけました。そしてフランス自身は、1789年にフランス革命が起こり、ルイ16世とマリーアントワネットは断頭台に消えます。フランスの海外植民地政策は、これにより頓挫することになり、豪州の英国植民地化も決定ずけられました。

その後、1799年には、ナポレオンボナパルトによりフランス共和国建設、更には帝政を敷しかれ、ヨーロッパ全土を席巻します。一時的でありますが、インドネシア、中国、日本(長崎出島)などに拠点を構えていたオランダがフランス領となり、ここでオランダのアジア、及び世界での影響力が大幅に減少しています。そしてナポレオンを1815年にワーテルロー(Waterloo)の戦で破った英国がヨーロッパ最強の国として浮上します。これらは1770年のクック船長の探検、1788年のシドニーの建設から1835年のメルボルンの建設の間にアメリカ、ヨーロッパで起こった激変です。
フランスからも多くの移民者が豪州に入植しました。兵隊、囚人、またフランスの政治の混乱から逃げてきた難民も含まれます。英国の植民地と言っても当時は軍を送らない限り、殖民については、ほとんど規制はありませんでした。1855年に行われた国勢調査では、フランス人の移民数は、ビクトリア州では英国、ドイツ、米国、中国に次いで5番目の人数です。

セントポール大聖堂を背景にフェデレーションスクエアでファッションショーが繰り広げられます。

豪州で最初の外国語新聞はフランス語によるものです。1892年に発行されています。フランス同胞会も組織されフランスの文化などを啓蒙しています。
第二次世界大戦後、ベトナムなど多くのアジアのフランス植民地が独立しました。そこから脱出してきたフランス人は、第三の祖国として豪州を選んだのです。フランス移民の数は、現在、依然として少数ではありますが、文化、言葉、教育、芸術、そしてワイン作りなど多方面で大きな貢献をしています。

移民博物館公式Web

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