2007年2月10日(土) (今日の一枚へ戻る)
ポーランドデー Poland day
フェデレーションスクエア Federation Square
Melway 1B−N10
メルボルン Melbourne
今日は天気予報では晴れ時々曇りとの予報で、まったくそのとおりになりました。午後の遅い時間からは晴れの部分が広くなってきました。気温は高めで、湿度もメルボルンには珍しく高く、少し蒸し暑さがありました。
ステージを待っているポーランド民族衣装をまとったダンスチームです。カメラを向けていると私のためにポーズを取ってくれました。やさしいポーランド系メルボルン娘たちです。
非常に動きが激しいポーランド男性チームです。このダンスは、ポーランドの中でも山岳地方の民族舞踏です。スイス、オーストリアの民族衣装にも似ています。動きにはロシア舞踏の雰囲気もあります。ポーランドは、ヨーロッパの大国のひとつです。両側をドイツ、ロシア、リトアニアにはさまれています。南側は、チェコ、ウクライナに接しています。北側は、バルト海です。ロシア、ドイツ、オーストリアの強国に囲まれており非常に厳しい歴史を経てきています。ポーランドは、ローマカトリックの国です。前ローマ法王ヨハネパウロU世は、ポーランド人です。イタリア人以外でローマ法王になった近世最初の法王です。キリスト教国であるので、もちろんEUの加盟も問題なく認められました。
豪州最高峰のコジウスコ山(Mt Kosciuszko 2,228m)は、ポーランド人の探検家が祖国の英雄の名前から名付けました。
顔にポーランドの国旗をペインティングするポーランド系のメルボルンっ子たち。
正面は、ユーレカタワー。
ポーランド移民は、メルボルン、ビクトリア州には非常に多く、国別ではイギリス、ギリシャ、イタリア、中国、ベトナムなどに混じってベストテンの上位に入ってきます。
メルボルンが1835年に成立する頃、ポーランドはワルシャワ大公国という独立国でした。しかしナポレオンに1807年に併合されました。ナポレオンが1812年にロシアへ遠征して敗戦した後は、逆にロシアに併合されました。東ヨーロッパは、ロシア、ドイツ(プロイセン王国)、オーストリア帝国に支配されたのです。ウィーン体制のヨーロッパと言います。1863年にポーランド人協会がメルボルンに設立されました。
ポーランド系の子供たち。TシャツにはPolski (ポーランドっ子)と書いてあります。
ポーランドからの最初の移民は、1850年代から1910年頃までにロシア帝国、オーストリア帝国から逃れてきた難民です。ヨーロッパ大陸から逃れてくること自体が難しい問題で、メルボルンまでやってこれた移民は、少ないのが実態でした。教育水準が高い技術者、教育機関の先生、ビジネスマンなどの教育レベルが高いのが特徴です。1914年に第一次世界大戦が起こり、また1918年にロシア革命が起こり、大国の影響が減り、ポーランドは、ベルサイユ体制の下で独立しました。このころからのメルボルンへの移民も減少しています。
若いお嬢さんたち。
メルボルンは多民族の街です。どこの国の出身であるのかは、普段は気になりません。しかしどこの国の人も出身国には自信を持っています。こういうお祭りの際には、お国自慢で盛り上がります。再びポーランド人の移民が増加したのは、1940年代からです。1939年9月1日、ヒットラーに率いられたナチスドイツ軍は、ポーランドへ侵攻します。9月3日にイギリス、フランスの両国は、ドイツに対して宣戦布告し、第二次世界大戦が始まりました。歴史的にポーランドには多くのユダヤ人が住んでいました。ポーランドに住む多くのユダヤ人がナチス軍によって虐殺(ホロコースト
The Holocaust)されたのです。有名なアウシュビッツ強制収容所(Auschwitz 世界遺産)は、ポーランドにあります。
アウシュビッツ公式Web Deathcamps
ポーランド国旗です。上が白、下が赤です。正面は、フリンダース駅。
戦後に移民してきた多くのポーランド人は、故国を失った人(Displaced Persons)としてやってきたのです。数千人のユダヤ系ポーランド人と共にポーランドドイツ軍として戦ったポーランド兵も数多く、英国軍により豪州へ送られています。
ポーランド移民の多くは、教育が高く勤勉で役人、商業、製造業に多く従事しています。
私にいろいろと教えてくれる移民博物館の親切な女性もポーランド人です。
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