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ヤラパーク

MCG

メルボルンクリケットグラウンド Melbourne Cricket Ground

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2017年9月03日(日)
MCG メルボルンクリケットグラウンド
Melbourne Cricket Ground(MCG)
Yarra Park
メルボルン Melbourne
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豪州最大のスポーツスタディアムであるメルボルン・クリケット・グラウンドは、もちろんクリケットの施設であるが、AFLオーストラリアンフットボールの聖地でもある。

撮影データ Canon EOS 5DMarkU 絞り優先AE 評価測光 絞りF8.0 1/500秒 ISO感度 100 露出補正-1/3 太陽光 JPG レンズ EF 24−70mm f/2.8L USM 2017年1月21日19:35 板屋雅博 撮影

1838年に設立されたMCCメルボルンクリケットクラブは、メルボルン周辺のいくつかの場所でクリケットの試合を実施した後で、現在のMCGが建つ場所を1853年に選定した。MCCの最初のクリケットの試合は植民地軍チームとの対戦で市内のウィリアムとラトローブの交差点にあるミント(造幣局)の場所であった。フラッグスタッフガーデンの場所で1839年1月であった。その後、サウスバンクへ移動したが、洪水が多く、サウスメルボルンへ移動した。サウスメルボルングラウンドは、豪州最初の鉄道サンドリッジ線が通る為に閉鎖された。ラトローブ総督は、3つの場所を提案した。サウスメルボルン、フリンダースとスプリングの交差点、リッチモンドパークの隣であった。



 1850年ころには、この場所は、80ヘクタールほどの広大な場所であり、ラトローブ総督のジョリモントの土地からヤラ川までの土地であった。1853年にはかなりメルボルン居住者たちが行きかう地区になった。MCC委員会は、リッチモンドパークの土地を選んだ。クリケット競技の為に水平な土地であり、一方、ヤラ川からスロープで上がるので洪水にも耐えられると判断した。政府の馬用飼育場の東側に2.4ヘクタールのリッチモンド・クリケットグラウンドを設置することを認可した。政府はMCGをクリケット専用に限定した。1933年にやっと他のスポーツにも使用が許可された。
1863年にヤラパークを横切る通路の使用ををホブソン湾鉄道会社に許可した。ヤラ川に近いエリアはスポーツ用途に開発され、1956年のオリンピックに使用された。

 MCGの最初の観客席は、1854年に建設された木製のMCC会員用であった。1861年に一般客用のスタンドが建設され、200mの横幅で6000席であった。2000席の正面観客席が1876年に建設されたが、これは翌年のJames Lillywhiteの英国クリケットチームとの試合用であった。この観客席は内側がクリケットグラウンドに面しており、反対方向は、オーストラリアン・フットボールグラウンドに面していた。これは世界最初のテストマッチであった。1881年に最初に作られたメンバー用木製スタンドは、リッチモンドクリケットクラブに55ポンドで売却された。新しいレンガ製グランドが建設され、当時、世界で最も美しいクリケット場であると称賛された。1881年に電話機が設置され、1882年にスコアボードが設置された。1884年に火事で焼けた為、会員用450席、一般用4500席の新しいスタンドが作られた。


1897年に二階建てのグランドスタンドが作られ9000名に増加した。1900年に電気式証明が灯された。1904年に2084名のGrey Smith Stand、1908年に4000名のハリソンスタンド、1912年に8000名のWardill Standが建設され、合計20000名に増加した。1936年にハリソンスタンド、Wardill Standは解体され、屋根付き18200名と屋根なし13000名ののサザンスタンドが建設された。旧正面スタンドが解体され、1956年のオリンピック用に北側スタンド(オリンピックスタンド)が建設された。この結果、MCGのキャパは、12万名に拡大した。1956年のVFLグランドファイナルの結果、115000名が限度と判明した。



 2006年のコモンウェルス大会に合わせて2003年から順次、古いスタンドは解体され、最新型のスタンドが建設された。全体に一体のスタンドになったが各セクションは、昔の名前を残している。400億円の費用で建て替え、収容人員は10万名である。過去最大は、2010年グランドファイナルの10万16名である。

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