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ヤラ川最初のコールの波止場 Cole's Wharf

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George Ward Cole La Trobe

2023年9月24日(日)  responsive版
ヤラ川最初のコールの波止場 
Cole's Wharf
ノースバンク Northbank
メルボルン Melbourne
この地区の地図Googole Map

ヤラ川の最初の波止場は、1835年から船舶が直接、河岸にもやいを取った杭を打ち込んで(stakes driven into the river)もやいを取った。1839年に波止場の計画があったが、囚人労働力が集まらずに頓挫した。その後、最初の波止場は、1841年にジョージ・コール船長(Captain George Cole )が建設した。コールの波止場はキング通りとスペンサー通りの間で税関の近くにあり、蒸気船が行きかうメルボルン随一の繁華な場所であった。多くの貨物が桟橋の手押しワゴン車に直接荷下ろしされた。

撮影データ iPhone XR
絞りF1.8 1/1916秒 ISO感度 25 
2023年1月21日12:21 板屋雅博 撮影

 コール船長は、1840年にメルボルンにやってきた。大型船は、サンドリッジの海岸の水深が深い場所に停泊して荷物や旅客を小型船に積みかえて岸まで運んだ。そこから8.5マイル離れたメルボルンまで到達するにはふたつのルートがあった。狭く曲がりくねったヤラ川を遡る方法があったが、泥だらけの河岸をよじ登って行った。もうひとつの方法は、サンドリッジ海岸(Sandridge)まで小船で行く方法だ。リアルデッドのホテル(Liardet’s Pier Hotel)で一泊して休息と食事を取り、翌日に荷馬車でメルボルンにヤラ川南岸まで行く方法であった。最終的にはヤラ川(Yarra punt)の渡し船で渡った。

 ふたつの方法とも高価についた。メルボルン中央部へのアクセスについては多くの提案があった。
1839年にラトローブ総督が着任する以前に、ロバートホドルは、蒸気機関鉄道を提案している。1854年に最初の鉄道がサンドリッジ海岸とメルボルンの間に開通した。曲がりくねったヤラ川をショートカットする運河の建設する提案もなされた。

 コール船長のこの提案をしたが、実際には1886年のクーデ運河がこの提案の経過に沿って完成した。1840年代に、コール船長はメルボルンの都市開発に波止場が欠かせないと考えた。シドニーでは政府支出が無く、民間企業により港湾施設の開発が進んでいた。民間の波止場が岸壁使用料を徴収し、波止場の建設と維持が出来るように法制化(Legislation)された。1841年にラトローブ総督に、ヤラ川に民間企業による最初の波止場建設の申請書を提出した。

 コール船長は、ヤラ川北側(ノースバンク)でキング通りとスペンサー通りの間のに1エーカーの土地をオークションによって1000ポンドで購入した。その前年にラトローブ総督がジョリモントの土地を1エーカー20ポンドで購入したのとは大きく価格が上昇していた。コールは川沿いに購入した土地を紅茶の木の沼地(a tea-tree swamp)と表現した。満潮時には遡ってくる海水によって浸潤されたからである。コールは波止場の建設に6万ポンドを使った。船の着岸用の素晴らしいプラットフォームを作り、安全に荷物の積み下ろしが可能になった。コール船長は、更に9フィートの高さを持つ壁を政府の要求により建設した。1842年にはコール船長は自身の船と他の船舶オーナーの為に波止場の運営に成功した。

他の民間波止場も建設されたが、政府が建設したクイーンズワーフは粗末なものでヤラ川北河岸にそって切株や杭(stumps and stakes)にもやいを取る程度のものであった。板敷き(planks)の歩道が北河岸の沼地沿いに作られて、居住地へのアクセスとなった。コール船長は、輸入した貨物の倉庫としてキング通りとウィリアム通りの間の間でフリンダース通り北側に面した場所で保税倉庫を建設した。波止場を建設する際に、コールは政府が基準を変更する(moving the goalposts)ことを考慮にいれていなかった。1843年に政府は、波止場所有者に対して、波止場使用量の1/3を政府に税金として支払うように要求した。1851年にビクトリアがNSWから分離独立した際に、新政府はコールに対して、1年間の波止場使用料を支払うように命じた。その後、9か月目に政府は両方の波止場料金の徴収を廃止した。



 これはゴールドラッシュが始まりコールは港湾事業の好転を予想していた。
コールは残り3か月のライセンス期間に於ける収入減少の補償をラトローブ総督に要求し、3469ポンドを入手した。最後の鉄槌(indignity)は、1854年に起こった。政府は自身の波止場を建設する為に、全ての輸入貨物に波止場使用料金を課した。民間業者は、自分の波止場維持の為の料金徴収を禁じられたコールは。自分自身の貨物を自分の波止場で荷揚げしたのに政府に税金を支払うのは不正義だと抗議した。コールは政府に対して、補償を又は波止場の買収を迫って長期に渡って抗議活動を行った。1868年に政府は19000ポンドでコールの波止場を買収した。最初の建設費用と政府がルールを変更したことにより、失った利益のほんの一部(a fraction of)であった。



 1850年代からヤラ川南河岸(サウスバンク)は、船舶会社に賃貸に出され、船舶関連に使用された。現在のクラウンエンターテインメント複合施設は1870年代から1台の蒸気クレーン用(steam crane)の石製の岸壁(stone quay)であった。1860年に港湾局の政府認可が下りた。この当時、ウィリアムズタウンの桟橋船舶数は36であったが、サンドリッジでは43船であった。1877年にメルボルン港湾局(elbourne Harbor Trust)が設立された。クード運河((Coode Canal) フィッシャーマンズベンド掘削(Fishermans Bend Cut)が1886年に完成し、ウェストメルボルンドック(ビクトリアドック)が1892年に完成したことにより大幅に改善した。新波止場は1903年に完成した。ビクトリアドックの中央埠頭は1916年に21のバースで完成した。主要輸出入貨物ターミナルは1930年代に完成した。


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