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プリンセス橋

オーストラリア デー Australia Day 2008

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2008年1月26日(土)11時半
オーストラリア デー Australia Day
プリンセス橋 Princes Bridge
メルボルン Melbourne
この場所の地図 Google Map

若干、下り坂との天気予報であったので心配されましたが、きれいに晴れてくれました。パレードが始まる午前11時半には、気温は30度近くまで上がりました。年配のおばちゃんたちはちょっとふらふらでした。

昨年の今日2007年1月26日(オーストラリア デー Australia Day

先頭をゆくオーストラリア国旗

 オーストラリアデーは、建国記念日です。1878年1月26日に最初の移民団(囚人船)がシドニーのボタニー湾に上陸したことを記念しています。(2007年オーストラリアデーに詳説しています。)
オーストラリアへの移民開始は、米国の独立と大きな関係があります。1717年から1776年にかけて大英帝国は、4万人もの囚人をアメリカ植民地へ送り込んでします。
アメリカでは広大な国土を開発するのに移民者だけでは足りずに多くの奴隷を使用していました。多くはアフリカ大陸や西インド諸島からの黒人やヒスパニック系です。更に労働者が必要となり、英国の囚人たちはアメリカへ金銭で売買されていました。当時の英国は不安定な政治の影響で治安が悪化しており、少々の犯罪でも直ぐに重罪が課せられて、金目当ての役人からアメリカへ売り飛ばされたのです。これが大量の囚人の島流しが発生した原因です。

1775年4月にアメリカ独立戦争が勃発して、ついに英国は、囚人をアメリカへ送ることができなくなりました。1778年にアメリカが英国に勝利しています。英国は、アメリカと戦争をしながらも、ロンドンでは囚人の数が収容しきれないほど増えていました。もともと軽微な罪で囚人数を増やしておきながら、身動きが取れなくなってきたのです。
更にアメリカ独立戦争は、カナダ、メキシコなどでの利害があり、フランス、スペインなどとも戦うようになります。囚人を南米、アフリカ、西インド諸島などの近場の植民地にも遅れない事態になってきました。
そこで苦肉の策として出てきたのが、天文観測のために南太平洋に派遣されたキャプテンクック(Captain James Cook)が1770年4月に上陸したオーストラリア シドニーのボタニック湾だったのです。

 最初に派遣されたのは、シリウス号を旗艦として英国海軍士官アーサーフィリップ(Arthur Phillip)を総司令官とする11隻です。しかしフランス、スペインとは交戦状態なので、十分な戦闘能力を持った軍備を備えています。
最初に11隻に乗っていた囚人の罪(軽微なもの)
6ギニーの窃盗
馬泥棒
服泥棒
ズボンのベルトの窃盗
4ポンドの窃盗
砂糖の窃盗
眼鏡の窃盗
お針子の万引き
女中で家財を盗んだ罪
殺人罪の囚人はひとりだけ。

 警察バグパイプバンド (The Pipe Band)
当時の英国の政治状況がこれからも判断できます。大半が20歳前後であったことは、豪州の建国に大いに役立ちました。
当時の英国では、食べていくにも困るような状況であったので、大半の囚人は、新しい大陸へ移住することは、満足していたと言われています。


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