2009年7月8日(水)
凱旋門 Municipal Arch
プリンセス橋 Prince's Bridge
セントキルダ通り St Kilda street
メルボルン Melbourne
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今日も素晴らしい快晴のメルボルン。
気温も15度ほどで寒くもない良い天気だ。
明日までは晴れる予報。
昨年の今日 2008年7月8日(キャプテンクックの生家)
Canon EOS 40D マニュアル露出 シャッター速度1/15秒 絞りF5.6 評価測光
ISO感度 1250 太陽光 画質圧縮率 sRAW2 レンズ EF-s17-85 f/4-5.6L IS
USM
メルボルンを代表する河川と云えば、もちろんヤラ川。
メルボルンを代表する橋は、間違いなくヤラ川にかかるプリンセス橋だ。
メルボルンの歴史的な意義でも、実際の重要性でもプリンセス橋の右に出る橋は無い。
移民の歴史、鉄道史上の重要性というふたつの点では、サンドブリッジ橋が勝っている。
四季折々に感じ方は違うが、バランスの取れた優美な姿は、メルボルンの美しい姿に調和している。
建築年:1888年10月4日
場所: スワンストン通り Swanston Street−セントキルダ通り St Kilda Street
設計:John Grainger (1855-1917)
建設:David Munro
建築時代:ビクトリアン
全長:120m、幅30m
橋げた:3本 橋げた間の距離:30m
登録:ビクトリア州遺産 Victorian Heritage Register
デビッドムンロー(David Munro )は、当時の橋の建築では有名で、サンドブリッジ橋、クイーン橋なども請け負っている。
1888年は、メルボルンの建築ラッシュの年で、数多くの名建築物が建てられている。当時、メルボルンやオーストラリアに製鉄所は無かったので、大量の鋼鉄は、英国、アメリカから帆船で輸入したものだ。
プリンセス橋(Prince's Bridge)は、王女(プリンセス Princess)の橋では、無い。
当時のエドワード英国皇太子(Edward, Prince of Wales)に由来している。
エドワード皇太子は、ビクトリア女王の長男で、ビクトリア女王が1901年に亡くなった後の英国王。
ビクトリア女王の統治時代をビクトリアン。エドワード王が1910年なくなるまでに統治した時代をエドワーディアンと言い、メルボルンの建設から繁栄の時代であったためにメルボルンの多くの建設物にこのふたりの名前がついている。
ふたりの銅像は、プリンセス橋の南側から歩いて5分のクイーンビクトリア公園にある。
1901年にオーストラリアは、英国の植民地から独立して英国連邦の一員としてオーストラリア連邦(Commonwealth
of Australia)となった。最初の首都は、メルボルン。この際、メルボルン市内に9つの凱旋門が建築された。そのひとつがプリンセス橋の上に建築された。凱旋門は、プリンセス橋の南詰め(サウスバンク側)に建築された。写真の凱旋門の中央部に船が見えるが、前方舳先方向がセントキルダ方面、後部がシティ方面と思われる。
ビクトリア州政府画像
ビクトリア博物館 連邦の記録pdf
州立図書館
Walking Melbourne
Vicnet
現在の橋は、3番目に架けられた1888年のもの。
補強工事は行われているとはいえ既に120年を経過している。
メルボルンに一般車両の通行が禁止になる日もそう遠くないと思われるが、その日までがんばってもらいたい。
プリンセス橋トップ
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